2021年12月20日
独言居士の戯言(第223号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
なぜ日本の労働者の賃金水準が上がらなくなってきたのだろうか
先週の400号において、岸田政権による与党税制改革大綱の目玉商品となっている「賃上げ税制」の問題点について書いたところ、多くの方から「賃上げ税制」がそれほど効果が上がらないのなら、どんな方法によれば賃金が上がるのか、きちんと問題提起すべきではないか、という声が寄せられた。もっともなことであり、なぜ日本の労働者の賃金水準は1990年代半ば以降から上がらなくなったのか、並行して日本のGDPの伸びも大きく停滞しているのは何故なのかも絡んでおり、きちんと解明していくべき点であると思う。
玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』を読む
そこで、1冊の本を書棚から取り出して読み始めてみた。玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶応義塾大学出版会刊)で、今から4年以上前の2017年4月に発刊されており、ちょっと時間は経っているものの、日本の労働者の賃金が停滞したままになっていることには変わりはないわけで、その原因を突き止めるべく22名の気鋭の学者・専門家が様々な視点から分析されている。
編者である玄田東京大学教授は「序 問いの背景」の中で、人手不足なのに賃金が上がらなくなる「謎」の解明は、今後世界的関心を集める可能性を有した問いかけだ、とその意義を述べておられる。それは「人口減少が進むと世界でも同様な事態が進むかもしれないから」(ⅷページ)とのことだ。つまり、時代が右肩上がりの成長経済から右肩下がりの停滞経済へと転換し始めた日本が、最先端を行くものとみているのかもしれないが、それは少し日本の現実を正当化しすぎていると思う。現に、人口減少し始めた先進国はあるものの、日本だけが賃金が上がらなくなり始め続けているのだ。
非正規労働者の割合増や賃金の下方(上方)硬直性など、論点整理はされているが、いまひとつピンとこなかった
玄田教授は、結論的に「賃金が上がらないのは、非正規の割合が増えたという『構成効果』も重要ですが、そもそも需要逼迫に対して、賃金という労働の対価が柔軟に対応しない『価格効果』の影響があるように思います」(ⅹページ)と述べておられるが、最終的には「結び 総括-人手不足期に賃金が上がらなかった理由」において、それぞれの専門家の分析を紹介され7つのポイントに分けて「謎」の解明を整理されている。
明確に、これが原因だという断定は避け、様々な観点から解明していく必要性の強調に終わっている。7つのポイントとは、「需給」(労働市場の需給変動)、「行動」(行動経済学などの観点)、「制度」(賃金制度など)、「規制」(賃金に対する規制など)、「正規」(雇用形態の正規・非正規)、「能開」(能力開発・人材育成)、「年齢」(高齢や世代問題)である。
最低賃金の低さやグローバリゼーションがもたらす所得分配への歪は?
私はこの玄田教授の整理については、それぞれの専門家の書かれた論文のまとめとして間違っているとは思わないが、全体として腹の底からストンと理解できなかった。その理由について、問題を提起してみたい。
一つは、最低賃金制度についての言及がなかったことである。最近における地域最低賃金の引き上げが進められてきており、東京都ではやっとのことで時間当たり1.000円を超すまでに至っている。その最低賃金を見たとき、国際社会での水準に比較してまだまだ低いのだ。バイデン政権は、時間当たり15ドルへの引き上げを目指そうとしていることが報じられている。この点については、浜口桂一郎JILPT所長の産業別最賃(特定最低賃金)への実に鋭く、政治的に重要な問題提起も含めて、後でもう一度言及したい。
もう一つの問題は、グローバル化という問題が齎している賃金決定への影響が、あまり考慮されていないことである。この点は、最新の『週刊東洋経済』(12月25日号)ダロン・アセモグルMIT教授のコラム「国際供給網の進展は賃金を引き下げ経済を壊す」において、実に明快に問題が指摘されている。まず、このグローバル化による労働者の賃金に対する影響の問題から入ってみたい。
世界的供給網拡大の背景にあるコスト削減、経営者の短期利益に直結
今や、世界的な供給網が張り巡らされ、一般的には経済の効率性を挙げているとされているが、覇権を競い合う米中の安全保障上の懸念以外にも経済に重大な脅威をもたらしうることを、昨今の物不足と急激なインフレとなっていることで知るところとなる。企業は海外での僅かなコスト削減効果でも「経営者にとって魅力は大きい」し、短期的には特にそうだと教授は述べる。
その背景には、経営者に与えられるストックオプションなど株価に連動した分厚いボーナスが手に入るわけで、短期利益による目先の利益かさ上げは、株価の上昇によって自らの報酬を手早く引き上げることに直結するわけだ。
製造拠点の海外展開による賃金抑制、所得分配の株主への移転を齎す
ところが、アセモグル教授は、この供給網のグローバル化によって「労働者側の利益を資本側に移転する効果がある点も見逃せない」点を次のように指摘する。その代表例として「拠点の海外移転」を取り上げ、「脅し文句として使うだけで、経営側は従業員の賃金を低く抑え込む」ことができるし、実際に労働規制が緩く賃金水準の低い国へのアウトソーシングすることで国内従業員の賃金を下げたのだ。供給網の細分化は労働組合の団体交渉力も弱まるから、経営者には「一石二鳥」、おまけに低税率国を使った租税回避といううまみも享受できるというわけだ。
かくして、アメリカ企業を取り上げて次のように結論付けられているが、それはそのまま日本においても適用することは言うまでもあるまい。企業別労働組合が中心になっているだけに、余計その効果が出ているとみるべきだろう。
「たとえ効率が高まらなくても、経営者は労働者から株主に利益を移転するためだけに供給網のグローバル化を進める傾向にあることを示している。こうした企業行動は米国経済に悪影響を及ぼす。供給網を過度に膨張させるばかりか、賃金を抑圧し、所得分配を歪めるものだからだ」
「株主第一主義」からの脱却こそ重要、日本の所得「1億円の壁」撤廃を
どうしたらよいのか、アセモグル教授は国外移転の租税回避メリットを削減し、他国の緩い労働規制に付け込む企業行動に制約をかけることだと述べたうえで、もっと「根源的」な改革として「経営者が目先の株価ばかり気にする状況が変わらない限り、労働者からの利益収奪は止まらない」わけで、「株主第一主義」からの脱却こそ重要であるということなのだろう。日本においても、「1億円の所得税の壁」問題にみられるような金融面での所得税における不公平さを無くすることの重要性がもっと強調されるべきであろう。
こうしたことを考えたとき、グローバル化の弊害についてのダニ・ラドリック教授の指摘が思い出されてくる。国際経済のトリレンマであり、無条件のハイパーグローバル化を防止する必要性を強調されていることを思い出す。
『情報労連REOORT』12月号の浜口論文「労働組合は『安い日本』を変えられるか?政労使に求められる現実解とは何か」に注目!!
さて、最低賃金の引き上げの問題に移ろう。浜口所長の書かれた『情報労連REPORT』(12月号)掲載の「労働組合は『安い日本』を変えられるか?政労使に求められる現実解とは何か」という論文が実に興味深いものだった。
特に、岸田内閣が「新しい資本主義」を掲げ、所得倍増をめざして「賃上げ」を実現させるべく経団連に3%の賃上げ要請をしたり、「賃上げ税制」を税制改革の目玉にしてきたわけで、そういう政治状況を労働組合側が逆手に取って、「政労使による産業別の最低賃金の引き上げ」を実施すべき絶好の時ではないか、と問題提起されているのだ。
連合が日経連に同調して「物価引下げ要望」を提起してきた歴史に言及
背景には、日本の物価があまり上がらなくなっている経過に触れ、1990年頃までは日経連も労働組合のナショナルセンター連合も「内外価格差解消・物価引き下げに関する要望」を提出し「規制や税金の撤廃緩和などにより物価を引き下げることで『真の豊かさ』を実現すべき」と訴えていた事実を提起する。私自身労働組合にいて、そういう共同行動があったことをぼんやりと思い出すわけで、ほとんどの若い世代は知る者は少ないと思う。
なぜこのことが問題になるのか、「消費者にとってうれしい『安い日本』は労働者にとってうれしくないものではないのか」という労働組合本来の疑問が呈されることがなかった点である。1993年8月日経連の内外価格差問題研究プロジェクト報告が、「物価を引き下げによる実質所得の向上は・・・・商品購買力の高まりが生まれ・・・・新商品開発、新産業分野への参入など積極的な行動がとれるようになり・・・・経済成長を大いに刺激することになる」と論じていたことが「失われた30年のゼロ成長は、この論理回路が100%嘘であったことを立証している」と浜口所長は厳しく批判する。今では、物価が上がらないことが大問題になっているわけで、その大きな要因は賃上げよりも物価安定に政策の中心を求めてきたことにあると厳しい。
サービス経済化した日本、その付加価値額はほぼ労働の報酬となる現実、サービス価格の低下を求める労組の立場とは何なのか!!??
その際、日本経済が高度成長をけん引してきた耐久消費財を中心にした製造業から、サービス業のウエイトが高まる時代へと転換したことの経済学的な意義を見失ってはならないこと。それは、日本が「労働の報酬がほぼサービスの価値となるような経済構造」がウエイトを高める時代になったわけで、そうしたサービス業の価格引き下げを労働者意識よりも消費者意識を労働組合でも優先した事実は、サービス業の賃金が上がらないことを求めたことに通ずることへの思いがなかったことへの批判なのだ。浜口所長は、このことが「日本経済における生産性の停滞を意味する」ことになったわけで、日経連報告とは逆に「賃金停滞による実質所得の停滞は成長しない経済をもたらし、欧米どころかアジア諸国よりも安い日本をもたらした」と問題の所在を喝破される。
価格引上げ協調行動がカルテル違反にならない唯一の道、産業別最賃引き上げに向け「政労使」三者構成の場の活用を連合は提起を!!
それでは、賃上げを実現するべく企業がサービスの価格を引き上げれば、他社のサービス商品購入へと流れてしまうのではないか、という反論が出てくる。そこで、同業他社が一斉に価格を引き上げるというのが唯一の解になる。一般的には同業者が協定して価格を引き上げるのは「カルテル」で独禁法違反になるが、労働組合の賃上げに応じる「協定」だけは違法ではなく「合法なカルテル」なのだ。それを実施しているのが日本以外の先進国の産業別労働組合であり、産業別の団体交渉なのだ。それを有効に使っていない日本の労働組合に「産業別最賃」という「政労使」三者構成という場がありうるわけで、岸田政権の時代に賃上げを推進することを打ち出していることを十分に利用してはどうかと提言されているのだ。「土俵を個別企業から業界全体に変え、事業者同士ではできない賃金カルテルを、産業別最低賃金という立派な形でやれるように、それこそ政労使で話し合って仕組んでいくという智慧が、今求められている・・」と提案されている。
「連合」は、こういうアイディアをしっかりと受け止め生かして、日本の労働組合の低賃金を何とかして引き上げていくべき時ではないだろうか。今こそ、労働組合の闘いを通じて勝ち取った法的な権利を生かしていくべき時代を迎えているのではないだろうか。関係者の決断と実行を期待したい。