2023年6月19日
独言居士の戯言(第298号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
森田長太郎『政府債務』を読んで、これからの日本に想うこと
日本の財政赤字拡大が止まらない。かつて、その規模がGDP100%を超えたら日本の財政はハイパーインフレを起こして破綻してしまうぞ、と警告を鳴らしていた経済専門家たちがいたことが思い出される。財務省では、国家財政を家計に例えてその危険性を2020年までは公開資料の中で堂々と訴えていたのが、今では誰もそんなことをしていたのかどうか、ほとんど忘れ去られたかのようだ。今では、財政赤字がGDPの2倍を超えてもインフレが起きるどころか、先進国の中でもとりわけ低いインフレ率(最近は輸入インフレの影響あり)にむしろ悩んでいるのが現実だ。
こうした事態を迎えて、独自に通貨を発行する先進国は、財政赤字が増えただけでは破綻はしない、といったMMT(現代貨幣理論)なるものを訴える関係者が日本でも出始めており、国会でもMMTについての論戦が繰り広げられたこともあり、日本の財政がこれからどうなっていくのか、すでに政府は事実上MMTを実践し始めているのではないか、などとその行く末についての疑問が出され始めている。
債券アナリストNo1の森田氏から見た「政府債務」に注目
そうした中で注目したいのがSMBC日興証券チーフ金利ストラテジスト森田長太郎氏の書かれた『政府債務』(2022年12月東洋経済新報社刊)である。特に、MMTやFTPL(「物価水準の財政理論」でいわゆる「シムズ理論」)といった新しい財政理論が打ち出され、これまでの均衡財政に近い考え方を鋭く批判し続けているなかで、独自の立場から鋭い指摘と批判を進めてこられている。森田氏は、慶応義塾大学を卒業以来30年以上にわたって債券市場の動向についての分析を専門に進めてこられた方で、『日経ベリタス』エコノミストランキング債券部門2017-21年第1位という市場関係者から評価の高い方だ。
私自身直接的な面識もないし、これまで読んだ著書としては『経済学はどのように世界を歪めたのか』(ダイヤモンド社2019年刊)だけでしかない。ただ、今回の『政府債務』にせよ、『経済学はどのように世界を歪めたのか』においても、これまでの正統派の経済理論に対しても、かなり厳しく批判を展開されており、私のような一介のアマチュアにとってそれを十分に理解しているのかどうか自信があるわけではない。特に、今回の『政府債務』について、一読しても歳のせいと知識レベルの低さゆえ、なかなかストンと落ちない。再読すれども十分に理解できたと言えず、再々読への挑戦と悪戦苦闘したのが現実である。それゆえ、以下の著書の内容についても正しく理解したものになっているのかどうか、賢明なる読者の判断に任せたいのが偽らざる心境である。
過去と未来の結節点が日本の政府債務、政策如何で削減も発散も
前置きが長くなってしまったが、著書の内容に入っていきたい。
「序章 過去と未来の結節点」と題して、日本の抱えている財政債務は過去の実績を将来へと連結させる役割を担っているとみて債券ディーラーとしての複眼的視点から分析されている。MMTに対して批判的な主流派の財政理論の間違いも指摘しつつ、ニューケインジャンの理論を信奉する中央銀行の金融政策に対しても、リスクマネージメントの発想が欠けていると厳しく批判する。これからの日本の財政の行方について、財政赤字が発散していくケース、横ばいが続くケース、そして低減していくケースを図示して、日本がどのような道を選択すべきなのかを示していきたいと述べている。
政府債務は破綻しないMMTの主張、長期タイムスパンになればテールリスクが増大へ
こうした目標を提起して、第1章では政府が破綻するとはどういうことなのか、政府と民間債務とは質的な違いを持っているわけで、ゴーイングコンサーンとしての政府の信用リスク評価の難しさを述べておられる。また、第2章「市場としての政府債務」、第3章「貨幣としての政府債務」、第4章「思想としての政府債務」、さらに第5章「政府機能としての政府債務」までにおいて、政府債務を考える際の問題把握の仕方についての問題点の整理がなされている。それ等の章ごとに指摘されていることを網羅的に述べていくことは紙数や能力の関係で省略したいが、特にMMTの主張として国の債務は事実上の貨幣であり、債務(=貨幣)をいくら増やしたとしても自国通貨建ての債務は発散することは無く、インフレに対して迅速に対処すれば何の問題もない、という主張を意識されながら、結果的にはMMTの主張に対して”視野が余りにも短期的過ぎる”として批判の論陣を展開されている。
とくに、日銀が日本の国債の過半数を買い取ったことで、政府・日銀の統合政府で見ると累積債務が半減したように見えるが、実は長期国債が日銀の準備預金として短期国債に転化したに過ぎないわけで、MMT派が主張しているように債務ではないとは言えないと批判されている。
貨幣とは何か、「商品貨幣説」の誤り、中央銀行独立性への疑問
そのほか、第3章では政府債務と貨幣の関係についても言及され、そもそも貨幣は納税の手段としての機能から解いているくだりなどは、なかなか理解しにくい点なのかもしれない。もっとも、インフレターゲット論を展開していたリフレ派をはじめ正統派が、中央銀行が単独で通貨発行高をコントロールして物価水準を決定できると考えていた背景に、「商品貨幣説」という間違った理論を前提にしたことへの批判が展開されている。また、中央銀行の独立性に関して、森田氏は「政府や議会の決定に左右されずに金融政策を執行することが法的に保証されている」ことへの批判が込められていることも指摘しておこう。
政府債務を巡る経済思想の相剋、究極的には国家のリスク管理へ
第4章の『思想としての政府債務』では、財政均衡主義とケインズ経済学との相克について詳しく展開されている。とりわけ、ケインズ主義への対抗としてブキャナンやフリードマンなどの登場によるケインズ政策の全面批判、その帰結としての2008年の世界金融危機(GFC)以降、金融政策の有効性の喪失による財政重視による経済政策への展開がアメリカのバイデン政権によって進められていることに『21世紀のケインズ主義』として言及。さらに「政府債務は後世代の負担になるのか」、という問いについては、利他性が孫の世代ぐらいまでは見通せてもそれ以上の長い時間軸では失われていくだけに、「財政問題は究極的には国家のリスク管理問題に帰着する」と考えて現世代が行動していくべきことを強調する。
戦争、パンデミック、災害リスクをどうマネージメントできるのか
そして第5章で『国家機能としての政府債務』であり、ここまでの議論の集約として「リスク管理問題」を過去の歴史の中から取り上げ、これからの日本のあるべき方向への示唆を求めている。
森田氏が取り上げたのが19世紀末イギリスの宰相グラッドストーンが、中長期的な先まで見通したリスクを取り出し、覇権国家イギリスに対抗するドイツやアメリカとどう対抗していけるのか、結果として第一次世界大戦までは対抗できたものの、第二次大戦までは持たなかったという指摘がある。
こうした戦争や大震災、パンデミック、更には恐慌といったリスクプロファイルを正確に認識しようとする政治リーダーがいたのかどうか、厳しく問うている。と同時に、金目で計算できない「定性的な国の信用」の持つ重要性にも言及、実際のリアル危機に陥ったとしても、復旧に力を発揮するのが「国の信用力」だと述べている。ワイマール時代のドイツのハイパーインフレの際に、国民は政府の賠償金支払い不能を見越して対外資産へとマルクから逃避したことで実質的破綻に陥った事例を挙げ、問われるべきなのは「国家の長期あるいは超長期の将来にわたる戦略的な思考ということに十分に即した議論である」(241頁)と述べ、国家としてのリスクマネージメントとして政府債務のコントロールの重要性を指摘する。
政府債務、歯止めなく増加し続けることに感覚的麻痺する日本、政府債務増加への税収減があることへの衝撃
ここからの「第6章日本の政府債務」「第7章 日本のリスクマネージメント」「終章 デフレの終わりとともに」と続き、「おわりに」において、日本人の中で、政府債務が歯止めなく増加し続けることに感覚的にマヒしているのではないか、と述べ書き終えている。
もう既に書評の域を超えて書き綴っているが、「第6章 日本の政府債務」では、なぜこんなに財政赤字が増大したのか、結論的には過去30年間の高齢化に伴う社会保障費の累積増加約350兆円、金融危機やコロナ禍の際の財政支出増加約150兆円、そして私がその数値に息をのんだのが大規模な税収減であり、法人税や所得税の制度減税が齎した300兆円を超す減税額にはため息が出た。それらは直間比率の是正と称した消費税増税策への対応だったが、それが税収減と共に所得格差の拡大へと導いていった新自由主義的な政策の一環だったことを忘れてはなるまい。
日本の90年代以降の4つのリスクへの対応についての問題指摘
これを受けて「第7章 日本のリスクマネージメント」の項で1990年代以降、あの時この問題で「もし・・・・」と問うた問題について述べている。それは、「プラザ合意とブラックマンデーを巡る”if”」「不良債権問題の”if”」「日銀の金融政策を巡る”if”」「人口問題を巡る”if”」という4つの”if”である。個々の問題についての詳細には触れないが、それぞれの項では実に興味深い問題を披歴されている。特に興味深かったのは、日本の経済史を流れている「大国意識情勢の歴史」観を指摘され、プラザ合意におけるアメリカベイカー財務長官が竹下蔵相に頭を下げたことや、FRB、ECBと並んでJGB(日銀)が世界の金融界で政策調整・協調していることの中にも存在しているのではないか、等と見ておられる。かつて明治維新政府が、「万国公法」下での不平等条約から脱却すべく様々な努力を試みてきたことを指摘したことがあるが、戦後の経済発展の下で「万国公法の遺伝子」が生き続けていることを森田氏は別の角度から指摘されているのだと思う。
大変優れた好著だが、どんな経済理論に立脚しているのだろうか
まだまだ論点は尽きないのであるが、そろそろまとめていくべきだろう。私はこの著書は実に良く問題の所在を整理され、日本が直面している課題を見事に指摘された好著と評価したい。是非とも、前著『経済学はどのように世界を歪めたのか』と同様、手にとって直接読んでいただきたいと思う。
ただ、著者森田長太郎氏がどんな経済思想に立脚されているのか、実はあまり良く理解できなかったという思いが募る。経済学の流れをアダムスミスからリカード、マーシャル、そしてフリードマンやルーカスという「供給サイド」の流れを重視されているのか、それともマルサスからケインズといった「需要サイド」の流れを重視されているのか、良く判らなかったというのが率直なところである。ニューケインズ理論なるものもあるようだが、もはやそういう分類には当てはまらないのかもしれない。
日銀の独立性へ疑問と問題提起、これからの論点になるだろうか
もう一つ感じた「感想」なのだが、日銀の金融政策、とりわけ黒田総裁以前の日銀出身者の金融政策展開について、かなり厳しい問題指摘が続いている。1998年の日銀法の改正による日銀の独立性の確立には、かなり批判的な指摘があり、今後は「政府と日銀の定期協議の場」を創り、その独立性を重視してはどうかといった提言すら言及されている。かつての大蔵省時代の日銀からどう脱却していくべきだったのか、いろいろと議論を呼びそうな重大な問題提起のように思える。今後のご活躍にも期待したい。