2015年10月8日
独言居士の戯言(第8号)
元参議院議員 峰崎 直樹
秋もだんだんと深まり始めた今日この頃、ノーベル賞受賞者が今のところ2人も出て、日本中大いに盛り上がってきている。もしかするとノーベル文学賞には、村上春樹さんが受賞するのではないかとか、平和賞には「9条の会」が下馬評に上がっていて、好位置につけているのでは、と言った予想が喧しい。出来るものなら是非とも、それが実現することを国民の一人として祈念しておきたい。
ノーベル賞のダブル受賞に沸く日本、果たして将来は?
そうした華々しい成果が上がっているのだが、心配なのは日本の研究者の置かれている雇用環境、研究環境である。国立大学が独立行政法人化されて以降、文教予算が削減され、研究費がままならないこともさることながら、何よりも研究を志す若者が、公務員の定数問題もあるのだろうか、なかなか終身雇用にはなれなくて非常勤の期限付き雇用になってしまう事が多く、落ち着いた研究が続けられにくくなっているようだ。あの、ノーベル賞を受賞した山中伸也京都大学教授が、とある所で発言されていたのを記憶しているのだが、山中教授の一番の悩みは一緒に研究しているメンバーの雇用や研究環境の問題だという。短期間の間に、成果を上げようとして問題を起こした事例が、つい先ごろ世間を大きく騒がせたのも記憶に新しいことだ。
何度も指摘してきた文教予算の削減、これでは先が思いやられる
こうして考えてみると、ノーベル賞の受賞者がこれから先も多く輩出できるのかどうか、心配になってくる。国家予算に占める文教予算の水準が、国際的にも最低の水準であることは、つとに有名になりつつある。GDPに占める公的予算の支出はOECDの平均値に比較して1.5%、金額にして約7兆円の低くなっている。社会保障と税の一体改革のなかに教育が含まれておらず、今後の消費税の引き上げの中では教育に重点的に振り向ける方針にはなっていない。
今からでも遅くはない、今後の国家100年の計を考えたとき、教育費の増強を計画的に進めて行く必要がある。少なくとも、どんな家庭環境で生まれようと、自分が望む教育を受けられるよう国は万全の努力をしていく必要がある。21世紀は、まさに人材の時代であり、人的資本の充実なくして先進国に伍していけないのだ。
ご存じだろうか、ノーベル経済学賞はノーベルの遺言には無い
もう一つ、ノーベル賞にまつわる話は経済学賞である。もともとアルフレッドノーベルが亡くなった時、1895年にノーベルが遺言としてまとめたものを紹介しよう。
「資産は遺言執行人により安全に投資されて基金を構成し、その利子は毎年、その前年人類の福祉のために最大の貢献をした人たちに賞として授けるものとする。又、この利子は五等分され、以下のように配分すること。すなわち、一部は物理学の分野で最も重要な発見又は発明をした人に、一部はもっとも重要な化学的発見または改良をした人に、一部は生理学又は医学の領域で最も重要な発見をした人に、一部は文学で理想主義的傾向を持つ、最も優れた作品を生んだ人に、そして一部は国家間の友愛の促進、常備軍の廃止や削減、および各種平和会議の開催や進展に最も多くの又は最も優れた貢献をした人に与えること」
御覧になられて解るように、ノーベルの遺言には経済学賞を設けるなどとは一言も書かれていない。
スウェーデンの経済界は、労働組合が強いため、
新自由主義的経済学こそ世界の主流だとノーベルの名前を使ったのだ
では一体、いつから、何故経済学賞が設けられるようになったのだろうか。
ノーベル経済学賞として第1回受賞は1969年であり、それにはスウェーデン国立銀行設立記念賞としてノーベルの名前を使ったものであり、ノーベルの子孫の方たちは、経済学賞にノーベルの名前を外してほしいと財団に申し入れたようだが、今のところ取り消されていないようだ。
さらに問題なのは、スウェーデン経済界が自分たちの国では労働組合が強く、社会民主主義勢力が影響力を持っていることに対して、解り易く言えば新自由主義的な立場の宣伝の材料としてノーベル経済学賞なるものを設けたことにあるのだ。それ故、アメリカのシカゴ大学に関係した経済学者に偏っており、女性で受賞した人はまだいない。そういう経済学賞は来週月曜日に発表になる。今年は一体どんな方が受賞されるのだろうか。フランス人のトマス・ピケティ氏は『21世紀の資本』で世界的なベストセラーになったのだが、おそらく選出されないだろう。何よりもアメリカの経済学の主流派の見解に真っ向から批判しており、それに付け加えフランス社会党の支持者であることも、その大きな理由になっているのだろう。私は、ピケティは受賞できないと思う。
(続く)