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労福協 活動レポート

2018年2月26日独言居士の戯言

独言居士の戯言(第35号)

北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹

平昌オリンピックに魅了された17日間、女性と道産子の活躍に拍手

平昌冬季オリンピックが終わった。終わってみると、女性の活躍が印象的であったし、北海道の小さな町の出身者が堂々と世界の強豪を相手にして戦い、好成績を上げていた。何というか、北海道に住む者にとって、誇らしい気持ちになった事は言うまでもない。当初カーリングや男子フィギュアスケートなど、一部の競技に関心を持つ程度だったが、いざ始まってみるとあまりルールも良く知らない競技にもかかわらず、殆どの競技の行方に関心を持つことになる。いままでのオリンピックでは、これほどテレビ画面に引き込まれることは無かったのに、今回の平昌は何故こんなに引き込まれたのだろうか。

一つは、時差が全く無かったことだろう。ヨーロッパやアメリカ大陸で開催されるとなると、放映時間が日本のゴールデンタイムからずれてしまい、生放送ではなくビデオでの放映中心になってしまう。とはいえ、競技種目によってはアメリカのゴールデンタイムに合わせた時間帯となったこともあり、なんでこんな朝早くにやっているのだろうか、と訝しく思ったものもあった。だが、何と言っても自分が高齢化し余暇時間が十分にあるという、リタイアした生活スタイルが一番の要因なのだろう。いつも見ている定例のテレビ番組が無くなっているわけで、必然的に放映されている競技に眼が行ってしまうわけだ。

コマーシャリズムに取り込まれたオリンピック運営の弊害では

それにしても、2020年の東京オリンピックの開催時期が、なんと真夏の7月24日から8月9日になるという。連日40度近い炎天下の東京で、マラソンを始めとする屋外競技など、熱さで倒れる選手が続出するのではないかと心配される。どうしてこんな日程配置になるのか、まことに非常識極まりない。ただ、ここでもアメリカ・ヨーロッパ・ファーストという問題が出てくる。1964年の東京オリンピックは10月開催であったが、東京でやるとすれば一番気候条件は良好である。なぜ秋ではなく真夏になったのか、アメリカやヨーロッパの秋は多くのプロスポーツやアトラクションなどが佳境の時機を迎えるわけで、スポーツ放映をするマスメディアにとって商業上のうまみは薄れる。それよりも、放映することが少なくなる端境期の真夏に開催すれば、莫大な利益が生まれるわけで、選手の健康問題などはそっちのけで利益至上主義のなせる業、という事になるわけだ。それゆえ、国際オリンピック委員会の方針として、7月から8月開催ということを開催の条件にしているとのことだ。

東京オリンピック組織委員長の森元総理、巨額の政治資金集めへ

オリンピックにまつわる商業主義の弊害は、多くの関係者が指摘してきたことだが、あまり好ましくないうわさにも事欠かない。東京オリンピックの大会組織委員長に就任したのが、元総理大臣の森喜郎氏である。政治家を引退していながら政治資金団体「春風会」を存続させ、2013年から15年までの3年間で2億3000万円もの政治資金を集めていると報道されている。オリンピックに関係した建設業界を始めとした各業界・企業からの献金が主力なのであろうが、引退した後も税制上優遇される政治資金を集めることが、本当に許されるのだろうか。政治的に中立であるべきオリンピック組織委員会の長たるものとして、良いのだろうか。

また、安倍総理が、東京オリンピック招致の際国際公約した、福島原発事故は「UNDER CONTROLL」と発言したものの、凍土壁による放射能汚染水問題などが今どうなっているのか、森喜郎氏の政治資金問題と共に、国会で問いただして欲しい問題だと思う。選手たちの素晴らしい活躍を思うとき、オリンピックを絶好の利権の機会とみて群がる人たちの卑しさが浮き彫りになる。

他方、今回の平昌で特筆すべきは、女子スピードスケート500メートル決勝で日本の小平奈緒選手が優勝し、2位が韓国の李相花選手となった時、小平選手が李選手の肩を抱いて励まし合っていた姿が心に強く残ったシーンであった。ともすれば、政治的に日韓関係はぎくしゃくすることが多く、韓国人の日本に対する怨念の強さはもちろん、日本人のなかにも嫌韓感情が強まっているだけに、二人の友情溢れる姿には韓国の世論からも温かいものが溢れていたようだ。何とか、韓国(北朝鮮も含めて)と日本の関係も、うまく展開させてほしいものだ。オリンピック・パラリンピックが終われば、北朝鮮問題が再び問題として浮上してくる。軍事衝突だけはご免こうむりたい。北朝鮮の側から、米朝会談の開催に前向きな動きが報じられたようで、是非とも前進させてほしいものだ。圧力だけを強調する安倍政権の対北朝鮮外交も、考え直すべき時なのかもしれない。

足尾銅山と福島第一原発、近代日本の150年を思う
大学院修士論文のテーマに足尾銅山労働争議を選択した50年前

ちょっと私ごとになるのだが、今から丁度50年前の1968年、一橋大学大学院修士課程も2年目を迎え修士論文の作成作業に入り始めていた。学部に引き続いて日本経済史の永原慶二教授のゼミに所属し、明治維新以降の労働問題に焦点を当てるため、大原社研や港区にあった中央労働学院などで資料を漁っていた。そうした中で、足尾銅山の第一次世界大戦後の大正9年に勃発した労働争議の資料を目にすることになる。足尾銅山の労働争議は明治40年にも大規模な暴動となり、戒厳令が敷かれて鎮圧されたこともあり、結成されて間もない労働組合運動の拠点の一つになっていた。大正9年の争議では、賃上げ、飯場制度の撤廃、団体交渉権の要求を求めており、ロシア革命の直後でもあり、戦前結成された日本社会党との繋がりもあったようで、労働組合運動の一定の高揚期だった。

幸運にも足尾銅山に出向き会社クラブに宿泊、当局資料も蒐集へ

偶々学部のゼミ生に足尾鉱業所の所長の息子さんがいて、足尾銅山に出向いて調査することができた。鉱山側に残っていた資料類をカメラで接写するのに時間がかかったため、何と鉱業所のクラブに宿泊させていただき、夕食では所長さんと一緒に食事をすることに。東京から100km近く離れた山奥にもかかわらず、新鮮でおいしい海の幸を賞味したことを何故か鮮明に覚えている。余程貧乏な学生生活だったのだろう、実に幸運に恵まれていたわけだ。

出来栄えはともかくとして、何とか論文をでっち上げて作成し、無事修士課程を修了する。1969年1月からは、鉄鋼労連本部に採用され、企画調査部へと配属される。丁度その時、東大全共闘が安田講堂での警官隊との攻防を繰り広げていた。まさに、全共闘運動が燃え盛っている最中であった。

駒野朝日新聞編集委員の『ザ・コラム』(2月22日朝刊)「足尾と福島 文明の光、克服できぬ影」を読んで

2月22日朝日新聞で駒野剛編集委員の書かれた「ザ・コラム」で「足尾と福島と 文明の光 克服できぬ影」を懐かしい思いで読み、50年前に出向いた足尾銅山の光景がよみがえってきた。1968年の初夏で、あたりは新緑の緑に包まれる頃だったが、余り樹木はおい茂った印象は無く、やや殺伐とした風景だったと記憶している。鉱山自体は未だ細々と稼働していたようだったが、明治から大正、さらには戦前の全盛時代、東洋一の銅鉱山と謳われた面影はすでに無く、閉山が5年後の1973年だったことを駒野編集委員のコラム記事で知ることとなる。その年の10月、第四次中東戦争勃発に伴う第一次オイルショックが始まり、日本の高度経済成長の終焉と重なったことが象徴的ではある。

駒野編集委員は足尾銅山の開発と公害の歴史について触れられ、特に産業発展をもたらした足尾の役割と共に、未だに足尾銅山の公害が齎した問題が未だに再生するのには時間がかかっている事を指摘する。明治以降の富国強兵のもたらした公害の原点とも言うべき足尾鉱毒事件だったが、相似形の悲劇として福島第一原発があることを指摘する。

「放射能に汚染された故郷に帰れない人がいる。原子炉に残るデブリを取り出して廃炉に出来るのか。軽々に克服など語れない」。まさに、足尾から排出された鉱毒水が流れ込む渡良瀬川の沈澱池として、谷中村は水没させられたことを思いだす。田中正造の天皇直訴事件の世界である。

全共闘リーダー山本義隆著『近代日本150年』と共鳴するコラム

駒野氏は次のように明治以降の歴史の問題点を指摘する。

「なるほど導入にはたけていた。しかし文明の光の享受を急ぐあまり、陰に無知で、その克服に幾多の力と涙が注がれたのが近代日本の歴史だったように思える。だとしたら、克服できない影もあると思い知るのが、歴史の進歩という事かもしれない」

このコラムを読み終えた時、1968年から69年にかけて東大全共闘運動のリーダーであった山本義隆氏の最新の岩波新書『近代日本150年』の中で、次のように語られている事を思い出した。

「生産第一・成長第一とする明治150年の歩みは、つねに弱者の生活と生命の軽視をともなって進められてきたと言わざるをえない。その挙句に、日本は福島の破局を生むことになる」(236頁より)

実に重い言葉であり、しっかりと噛みしめて行く必要がある。


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