2018年7月9日
独言居士の戯言(第53号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
ワールドカップロシア大会の盛り上がりに一喜一憂した日本
1週間ではなく2週間となると、いろいろな出来事が多すぎて何から問題提起を始めるべきなのか、正直迷ってしまう。特にこの間、4年に一度のワールドカップロシア大会があり、日本チームが何とか予選を突破しベスト16にまで入り込み、世界の強豪ベルギー相手に後半早々2対0とリードするも、最終的にはアディショナルタイムで逆転負けしてしまった。大善戦であったことは確かであり、日本のサッカーファンならずとも国民全体がかなり盛り上がった時期でもあった。特に、日本の代表チームの外国から招聘してきた監督が、なんと直前になって解任され、予選ラウンドの最終戦であるポーランド戦では、1対0で負けていながら途中から戦いを守備だけに集中し、ボール回しで予選突破を実現させる奇策となった。なんとも後味の悪い中でのベルギー戦善戦で、「終わり良ければすべてよし」となってしまったことに、どう評価してよいのか戸惑ってしまった。
経済摩擦どころか「貿易戦争」化する米中、対立激化へ
そうした喧噪のなかでも、世界では米中の貿易戦争が勃発し、関税の引き上げ競争が火ぶたを切りはじめようとしている。トランプ大統領はアメリカファーストを前面にして大統領選挙を戦い、ラストベルト地帯など自らを強く応援してくれた有権者の支持に直接応えるべく、鉄鋼やアルミさらには自動車も含めた輸入品への高率の関税を掛けようとしている。先のG7のサミットでも他の先進国の首脳が、トランプ大統領に自由貿易の重要性を訴えたにもかかわらず、聞く耳を持たない姿勢を貫いてきた。
今後、中国だけに留まらず、世界の国々との経済的対立を巻き起こし続けて行くのだろうが、11月の中間選挙だけでなく次の大統領選挙まで射程に入れた動きだとすれば、世界経済は大混乱の中で安定性を欠いてしまう事は必至だろう。グローバリズムの齎す弊害を改革する必要性こそ論議すべき課題であり、アメリカとの二国間交渉で物事を決めて行く事の弊害は大きい。どこかで、この動きを終焉させるべく、アメリカを除く世界のリーダーたちの結束した行動に期待する以外にはなさそうだ。
もはや、「パックスアメリカーナ」は崩壊に向かって動きつつあるものの、世界第2位の経済大国中国が、アメリカにとって代わる民主的な覇権国家とは考えられないだけに、大動乱の世界政治が始まろうとしているのかもしれない。今は、アメリカをはじめとする先進国の経済も好況局面だし、途上国の経済も順調なだけに、それほどの摩擦は露呈していないものの、すでに好況期が10年近く続きやがて不況への突入が心配され始めており、更なる経済摩擦の激化が懸念される。
ポピュリズム政党の台頭と社会民主主義政党の凋落の因果関係
ここで少し視点を変えて、世界の社会民主主義の動きについて触れてみたい。というのも、トランプのポピュリズムを支えている支持基盤の一つが伝統的な労働者階層であり、かつては民主党支持の左派を形成していた層でもあるのだ。アメリカだけではなく、伝統的に政権政党を担ってきたヨーロッパ社会民主主義政党の凋落が顕著に進んできており、昨年9月のドイツ社会民主党は支持率が20%そこそこにまで落ち込んだし、フランスやイタリアを始めヨーロッパ社民の支持基盤が急落していることと対称的に、ポピュリズム政党の台頭が著しい。それは、日本にとっても他人事ではないわけで、こうした動きの背後にあるものは何なのか、しっかりと見ておく必要がある。
最新の『生活経済政策』(生活経済研究所刊)7月号は、「社会民主主義に未来はあるか?」という特集を組んでいる。小川有美立教大学教授の編集で、北海道大学教授の吉田徹教授が総論的に「社民政治の衰退?—戦略、組織、環境」を書かれ、ドイツは野田昌吾大阪市大教授、スウェーデンは鈴木賢志明治大学教授、イギリスは今井貴子成蹊大学教授が書かれている。以下、吉田教授の論文を中心に見て行きたい。
ケインズ主義から新自由主義への転換、90年代社民の大胆すぎる転換こそ問題ではなかったのか
戦後花開いたケインズ主義に基づいた総需要管理政策であるが、ニクソンショックやオイルショック後の70年代後半においては、インフレと通貨安、財政赤字を招いたとされ、社会民主政権は経済運営能力が弱点だと見られてきた。そうした中で、新自由主義が台頭し、個人主義的な価値観が敷衍してくる。社民勢力は経済政策では市場重視へ、文化・社会的にはリベラルへと変身して行く。「つまり、新自由主義の波をかぶったポスト冷戦時代の西欧社民は、政権担当能力を示すためにも、それまでの大きな政府路線、財政拡張路線を撤回し、自由貿易と資本市場の自由化を認める親グローバリズム路線へと転換する戦略が採られた」(8頁)わけで、これは資本市場の民主的な統御を是とする「社民的合意」を棄却したわけだ。
こうした戦略転換は、90年代後半には社民が清新なイメージで持って新中間層に受け止められ新たな支持を得られたのだが、他方で伝統的な労働者階層の支持基盤を喪失したことになる(イギリスの第三の道によるニューレーバーやドイツシュレーダー改革など)。もっとも新中間層は、もともと社民政党への帰属意識をあまり持っていないわけで、経済政策次元では保守主義・自由主義政党と差別化を図ることができないで、経済上の失政があれば有権者からの制裁を受けることになる。
ポピュリズム政党は、雇用創出・社会保障重視、自由貿易制限を打ち出し、
伝統的労働者層は社民からの支持を転換へ
他方、文化的・社会的リベラルを嫌う労働者は、ポピュリズム勢力支持へと向かい、「2000年代に入るや右派ポピュリズムは、雇用創出や社会保障水準の維持、自由貿易制限など経済政策上は保護主義、移民やマイノリティの権利抑制など社会的には権威主義的政策を掲げて支持を拡大して行った。経済的な再分配を必要とし、文化的・社会的に保守的な層は、ポピュリズム政治に流れ込んでいく。社民政党は政策的立場からサービス業の高度専門・高技能従事者などの支持を集めるものの、再分配重視で権威主義的な熟練工や単純労働者両階層との支持を両立させることは難しく、それが社民政党の脆弱さとなって現れる」(9頁)と分析している。
日本の民主党結党の流れは、まさにヨーロッパ社民の転換と軌を一にした動きだった
こうした経過を読むにつけ、自分が1992年日本社会党の参議院議員に当選して以降、社会民主主義の新しい潮流として、当時流行したギデンズの著作やトニーブレアの動きなどに注目し、社会民主主義の新しい道を模索したことを思い出す。その結果、社会党から民主党の結成へと進み、いわゆる「革新」政党から「リベラル」政党へと転換していく。鳩山由紀夫・菅直人両代表によるリベラル政党「民主党」は、改革の出来ない腐敗した保守勢力としての自民党や、古めかしい社会主義の手垢が付いた社会党に替わり、新しい時代を切り開くリベラル政党として1996年発足する。それは、ヨーロッパにおける新しい潮流と同じ流れの一環であったことは間違いないし、それを自覚していたと言えよう。
しかし、その民主党は2009年総選挙で政権交代を勝ち取るのだが、事業仕訳を始め公務員に対する厳しい対応にも力を入れ、「新しい公共」なる概念を提示し自民党政権との違いを演出してきた。だが、財源問題に対する無責任さや、統治能力の不十分性を露呈させ、政権の座を失う事となる。民主党政権は、労働者を基盤にした社会民主主義政党というよりも、どちらかと言えば「行政改革」を強調した「小さな政府」に近い考え方を前面に打ち出していた、と捉えられても仕方があるまい。
立憲民主党枝野代表の発言、「まっとうな保守」「宏池会」とは?!
鳩山内閣から菅内閣へとリベラルを前面に出してきたリーダーではあるが、財源不足に直面するなかで高齢社会を前に社会保障の充実も求められ、消費税引き上げへと大転換していく。だが、民主党政権内にはヨーロッパ流の大きな政府を否定するグループが存在していたわけで、民主党政権の内部で消費税引き上げを巡って分裂へと進んでいく。その後の民主党の行方は、民進党から立憲民主党・国民民主党・無所属会派へと分解し、今日に至っている。
それでは、立憲民主党の結党の理念は何か、と問われた枝野代表は、「まっとうな保守」であり、目指すべきはかつての自民党「宏池会」と答えていたことが印象的である。社会民主主義を打ち出す政治勢力は、残念ながら極めて少数な存在となってしまったのだ。
「給付先行型福祉国家」という現実の下、再分配政策への転換を
今求められているのは、国民生活を支えて行くべき社会保障の向上であり、国の財政の持続可能性の確立であろう。そのためには、社会保障財源の確保と共に、先ずは一刻も早い基礎的財政収支の黒字化実現だろう。消費税率の10%への早期の引き上げとともに、更なる消費税の引き上げなど、国民からの幅広い負担による再分配政策の強化以外にない。
赤字先行型の福祉国家としてスタートした日本にとって、赤字が累積すればするほど過去の借金への支払いが増え、社会保障に回すべき財源が少なくなる運命にある。ヨーロッパのように、増税分が全て社会保障に回せない現実を、政治は正直に国民に訴えて行かなければならない。その意味では、本来あるべき社会民主主義政治勢力がほとんど存在していなかった日本は、こうした現実しか残せていないわけで、そこから出来る限りの福祉国家へと進めて行くしかないのが現実だろう。今の日本では、高負担でも中福祉、中負担では低福祉しか実現できないのだ。
ポピュリズムへの対抗は、フィージビリティとサステナビリティを備えた再分配制度重視路線への転換では
ヨーロッパの高邁な社会民主主義論議からほど遠い現実ではあるが、それでも考えなければならないのは、90年代における大きな政府から小さな政府へ、グローバル化という名の新自由主義的な経済政策を容認したという事の問題だろう。もう一度、取り戻すべきは社会保障の充実がもたらす日本経済の需要へのインパクトであり、給付先行型の福祉国家の下での不十分な再分配政策であってもその実現する事の重要性であろう。いま、そうした地道な努力が実現できないとき、ヨーロッパにおけるポピュリズムの台頭が日本においても進展する危険性が増大し始めている事に注意すべきであろう。移民問題が顕在化していない日本ではあるが、排外主義的政治勢力の台頭には警戒すべきだろう。フィージビリティやサステナビリティを欠いた低賃金や雇用格差に呻吟する労働者向けの甘い言葉に、騙されてはなるまい。