2018年10月22日
独言居士の戯言(第67号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
「チャランケ」とは、アイヌ語で談判、論議の意、「アイヌ社会における秩序維持の方法で、集落相互間又は集落内の個人間に、古来の社会秩序に反する行為があった場合、その行為の発見者が違反者に対して行うもの、違反が確定すれば償いなどを行って失われた秩序・状態の回復を図った」(三省堂『大辞林』より)
来年10月からの消費税10%引き上げ、ようやく実現するのか???
延々引き延ばされ続けた消費税の引き上げが、1年後の来年10月に迫る中、ようやく実施する方向へと舵を切り始めたようだ。それでも、菅官房長官は「リーマンショック級の不況が無い限り」などと未だに条件を付けているが、前回の参議院選挙を前にした2回目の延期の口実が、「リーマンショック級の不況の危険性が迫っている」を上げ、サミット各国のメンバーからその景気認識の出鱈目さを指摘され、国際的にはとんだ赤恥をかいたことを忘れることができない。
もちろん、経済は生き物であるから、来年秋にどんな状態になっているのかは誰もわからない事は確かだが、今現在の日本経済や世界経済について、再び大恐慌や大不況が起きる予兆は感ずることは出来ない。それどころか、日本経済の最大の問題は労働力不足なのであり、企業業績もリーマンショック前のレベルを凌駕するところまで到達していることも周知の事実であろう。
日本経済は好況だから、「完全雇用余剰」でなければならないはず
これだけの景気の好転がありながら、日本の財政は「完全雇用余剰」に到達できていない事こそが大問題なのだと思う。「完全雇用余剰」とは、不況になれば財政赤字をしてでも公的支出を軸にした内需拡大によって景気を引き上げ、失業者を少なくしていく必要があるが、好況になれば、税収増によって財政赤字から脱却し、不況期に備えるべく財政黒字にしなければならないという考え方である。日本の政治は、このレベルの健全な論議が全く通用しない状況となっており、財政赤字を先行させて公共事業はおろか、社会保障についても赤字で以て賄わざるを得ないのが現実である。つまり、「給付先行型の福祉国家」になっているわけだ。
一刻も早い基礎的財政収支黒字化を達成しなければ、破綻は必至だ
一刻も早く、税収で以て国債費以外の経常支出を賄える基礎的財政収支の黒字に転換させる必要があることは言うまでもない。と同時に、なんとか社会保障支出のレベルを少しでも引き上げる為に、国債費だけでなく社会保障支出の充実に向けた財源を確保する事によって、超高齢社会や少子社会を克服するための「中福祉」レベルにまで引き上げて行く必要がある。毎年の国債費は、累積した1000兆円を超す借金の元本と利息を含めて歳出総額の25%にまで達している。もちろん、歳入に占める国債費は33%近くに達しているわけで、はやくその額逆転させ累積赤字を削減するレベルにまで持ち込まなければ、やがて財政破綻という道に踏み込むことは必至だ。
それ故、今回の消費税率の10%への引き上げだけでは到底不十分なわけで、一刻も早く次の税収増に向けた財政展望を作り上げて行く必要がある。端的に言えば、消費税率の15%~20%までの増税論議が求められているのだ。今の安倍政権の下では、そういった健全な財政を確立する事は到底見込むことができないわけで、次の日本のリーダーには是非ともこうした財政責任をきちんと踏まえて欲しい、と思うのは小生だけであろうか。
それにしても何でもありの来年度財政支出、大盤振る舞いか!!!
こうした厳しい現実を前に、消費税の引き上げが景気に対する悪影響をもたらす、として様々な財政支出(減税も含まれる)が打ち出されようとしている。連立を組んでいる公明党からは「プレミアム付き商品券」の発行を求めているようだし、政府の方もクレジットカードを使った場合に消費者に2%分のポイントを還元する、というものや、現金の支給すら噂され始めているようだ。「弱者対策」の名目でこうした「小細工」が進められようとしているが、本来は福祉政策の中で考えるべきことではないか。こうした対策の中で、ここぞとばかり自分たちの狭い業界の利益を持ち込むことに対して、しっかりとした国会でのチェック機能が重要になってくる。その際、複数税率の初めての適用が問題になってくる。単一税率に戻せれば何の問題もないわけだが、それが政治的に困難である以上、インボイスを使った正確な税の転化が不可欠だし、中小企業のレジなどへの支援にも力を入れるべきだろう。
民主党政権時代の三党合意、旧民主党継承の野党が破棄するとは!?
残念ながら、今回の野党(立憲民主党は今回も明言したし、前回の政府の延期の前に旧民進党は反対した)側には消費税の引き上げに反対する側に回ってしまったわけで、あの3党合意の約束はどこに行ったのか、誠に残念といわざるを得ない。色々あったとしても、民主党野田総理の決断は高く評価されてしかるべきなのであり、それを土台からひっくり返してしまった野党側の姿勢には、残念ながら国の将来の命運を託すに値しない大失態と言わざるを得ない。かつての社会党時代に舞い戻ってしまったかのような野党側の姿勢の変化には、当分の間、日本の民主政治が大きく劣化してしまうのではないか、と思えてならない。
仙谷由人さんを悼む
仙谷由人元官房長官が10月11日、他界された。すべての葬儀がご家族の下で終了した直後だったのだろう、元秘書であった乙井さんから15日の午後電話があり、そのつらい事実を知らされる事になった。享年72歳、今の平均寿命からすれば明らかに若い。新聞各紙も仙谷氏の訃報を報じていたが、現職の立憲民主党の枝野代表をはじめ与野党の政治家が、その早すぎる死を悲しみ、民主党政権前後の仙谷さんからの公私にわたる指導に感謝の言葉が綴られていた。「情と理』を兼ね備えていた政治家であり、政権担当能力が欠けていた民主党の政治家の中で、仙谷さんの抜きん出た能力を高く評価する記事が溢れていたのが印象的であった。
社会党ニューウェーブの会を牽引、政治が変わる期待を持てた時代の先頭に
仙谷さんと私の出会いは、1992年の参議院選挙で国会に出向いて以降の事になる。既に1990年の総選挙で初当選していた仙谷さんたちは、社会党内の若手で創っていた「ニューウェーブの会」での活躍が報じられており、北海道でその動きに注目していた私にとって、一刻も早くお会いしたいと思っていた政治家の一人だった。当時、ニューウェーブでは松原脩雄氏や筒井信隆氏ら、かつての全共闘運動の流れを汲んだいわゆる「68年世代」が頑張っており、日本社会党が大きく転換できるのではないか、という期待を持たせてくれた時代だった。
シリウスへの参加、自民党の分裂、解散総選挙での「まさかの落選」
そうした希望を持った私だったが、意外に早くそのチャンスが訪れた。私の北海道での参議院選挙に応援に駆け付けてくれた当時社民連の菅直人衆議院議員から、シリウスという政治集団を立ち上げたいので参加しないか、というお誘いがあったのだ。当時社民連の江田五月代表や社会党のニューウェーブの会、さらには「連合参議院」の若手など、30人近い衆参国会議員が参加し、新しい政治を目指して勉強会が発足したのだ。1992年11月3日の事であった。当選して未だ3か月過ぎたばかりでの「シリウス」への参加という決断、その時には既に仙谷さんとも議論をして合意していたことは言うまでもない。
シリウスが発足して以降、1993年に入るや政局が大きく流動化し始めていた。自民党内から羽田孜、小沢一郎氏等最大派閥の竹下派が分裂し、宮沢内閣の不信任が可決されるというハプニング(?)が起こり、衆議院の解散・総選挙へと突入する。残念なことに、仙谷さんは《まさかの落選》の憂き目にあい、その後続く激動の政界再編成に直接は加われなくなってしまったのだ。その後、非自民8党会派による細川内閣の成立と崩壊、羽田少数短期政権内閣による総辞職、何と社会党と自民党、それにさきがけが加わった村山内閣の成立へと激動の平成政治史が続く。
2002年の民主党代表選挙への出馬、前年の年末、癌の手術で断念へ
仙谷さんは在野で切歯扼腕しながら政治の動きを眺めることになるのだが、持ち前のバイタリティで韓国の政治家との連携や、来たるべき政界再編成をにらんだ政治活動にも参加され、1996年9月の民主党の結成、小選挙区比例代表並立制による初めての選挙で徳島1区からめでたく当選し、再び政治活動の第1線に立ち戻り、政策調査会長などを歴任する。このまま、鳩山・管という創業者の次は仙谷ではないか、と喧伝されたのではあるが、2001年末、癌が見つかり翌年の民主党代表選挙の出馬を見送る。
その後は、前原誠司氏等を前面に出して自らは後景に退くも、政権交代による民主党政権の要として、国家戦略担当大臣、菅総理の下での官房長官、さらには一度閣外を去るものの、3・11東日本大震災以降は再び内閣官房副長官として辣腕をふるったことは、国民周知の事であり、永く政治史の中で記憶され続けるに違いない。
2012年末の総選挙で議席を失って以降、早々と政界からの引退を宣言し、その早すぎる引退を惜しむ多くの民主党関係者の声だけではなく、自民党をはじめとする他の政治家や経済界の方たちなどもおられ、あらたに都内に事務所を設けてインドネシアやミャンマーを始めとする国際関係の連携強化をはじめ、後進の政治家に対する指導などに当たられてきた。72歳というまだまだこれからという時、病魔に襲われたことに断腸の思いを感ずるのは20年以上にわたるお付き合いによるものなのだろう。
2011年11月30日、国税通則法の大改正実現へ、仙谷副官房長官の尽力大
仙谷さんとの公私にわたるお付き合いは数知れないのだが、一番の思い出は私が内閣官房参与として「納税者権利憲章」の策定や、今のマイナンバー制度の導入にむけて、内閣府や財務省・厚労省などの官僚の方達と一緒に進めていた事への支援であろう。変えたくない省庁の抵抗で、「国税通則法」の大改正が進まなくなってしまいそうになった時、官房長官や副長官の立場から強くバックアップしていただき、無事国税通則法の大改正が2011年11月30日、ようやく実現できたことが思い出される。税務手続きの透明化をはじめ、当時は国税庁のさじ加減ひとつで、納税者の不利益が左右されるなど、この改正が実現できた意義は実に大きいものがあった。
《マイナンバー》の実質上の名付け親、公募による名称決定へと舵取り
さらに、マイナンバー制度の導入に向けて進めていた時、その名称を「社会保障安心番号」にしてはどうか、と思案していた時、番号名称を公募して決めるべきだ、と主張され、かくして《マイナンバー》という名称が誕生してのだ。仙谷さんが生みの親だと言っても良いだろう。
仙谷さんにとってみれば、些細な事でしかなく、のちの東京電力福島原発事故の後処理や中国船との尖閣諸島での衝突事件など、大問題などでの活躍こそ高く評価されてしかるべきだろうが、小生なりに力を入れてきた仕事への支援も忘れられない。
あの世へと旅立った仙谷さんへ
仙谷さん、安らかにお眠り下さい。これからの政治の行く末を、黄泉の国から温かい眼で見守っていてください。紆余曲折はあろうとも、必ずや日本の民主主義が健全に進む中で、次の新しい世代のリーダーによる政権交代ある政治が実現される日が必ずやってくることを、お互いに確信して行こうではありませんか。
合掌。