2018年12月3日
独言居士の戯言(第72号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
今週は、大学時代の友人が書いた最新の著書を紹介したい。政治家の端くれにいた者として、日本最初の衆議院選挙の内実を知るにつけ、日本の民主主義の歴史もなかなかのものだったと思い直したのだった。今の日本の政治家に、本書を読んで、もう一度自由民権運動の歴史的遺産を学ぶことを進めたい。
書評 稲田雅洋著『総選挙は このようにして始まった—第1回衆議院議員選挙の真実—』(2018年10月 有志舎刊)
我々は、日本最初の総選挙の実態をどれだけ知っているだろうか
1890年7月1日、日本で初めての衆議院議員選挙が実施された。もっとも、当時の日本の中で、沖縄と北海道は除外されており、その意味では日本で初めてとは言い難いのかもしれないが、自由民権運動が「挫折」したものの、制限選挙とは言え国民の直接選挙で代表を選出するという「民主主義国家」としての歩みが始まったことは間違いない。その最初の選挙について、われわれはどれくらい知っているだろうか。直接選挙といっても、選挙権・被選挙権は男子に限られ、しかも直接国税を一定額以上納めている者に限定されていた事は知り得ても、選出される過程でどのような運動が繰り広げられたのか、自由民権運動の流れを汲んだ自由党や改進党の党員が、どのようにこの選挙を受け止め、選挙運動(闘争)を展開したのか等、初めてその全貌を捉えたのがこの本であり、日本の近代政治史を学ぶ者だけでなく、日本の今の政治を考えるうえでも欠かせない貴重な好著であり、是非とも一読をお勧めしたい。
著者稲田雅洋さんとは、一緒に歴史学研究に入った友人だった
著者である稲田雅洋氏は、一橋大学に学び明治維新以降の自由民権運動を研究してこられた歴史学者であり、既に何冊もの著作を刊行されている。実は、評者である私と著者稲田さん(以下、友人として「さん」付にしたい)とは、大学入学が同期であり、同じクラスに所属し、当時でもまだ続いていた日本資本主義論争に始まる講座派・労農派論争の余韻が残る中、一時は同じ歴史学の研究に入った仲間だった。稲田さんは一橋で博士課程まで修了され、以後愛知教育大学から東京外国語大学で学問の世界で活躍され、東京外国語大学名誉教授として今日に至っておられる。
稲田さんは、2年前脳内出血に襲われ、深刻な後遺症に直面
残念なことに、いまから2年前の2016年の9月、稲田さんは脳内出血という病に突然襲われ、未だにその後遺症に悩まされながら大変厳しい闘病生活を過ごされている。そうした困難な状況の中で、今まで研究してこられた成果の一部を何としても発刊しておきたい、という強い信念で出版に漕ぎ着けられたことは、この著書の「まえがき」と「あとがきにかえて」に詳しく書かれている。「脳内出血」という病がもたらす身体・精神への深刻な後遺症は、リハビリを通じてもなかなか重篤なものが残ることが多く、稲田さんにおかれても大変厳しい後遺症による痛みや身体能力の麻痺による精神的・肉体的ダメージは大変なもので、ご本人以外には十分に解からないものがある。今回のこの著書は、そうした言語を絶するような厳しい環境の下に置かれた著者の、いわば「遺書」として上梓したという思いが、読む者の胸に強く迫るものがある。
「衆議院議員=ほとんど地主」という「公式」を丁寧に論駁へ
さて、もう少し中身に入ってみたい。まず「序章『衆議院議員=ほとんど地主』をめぐって」では、これまでの明治憲法下の衆議院・国会を歴史学はどう捉えていたのか、学説史から検討する。
これまで、戦前の国会は天皇制国家の下では、国民の主権が弱く天皇制の「飾り物」でしかなかったし、選挙権も被選挙権も直接国税15円を支払う成年男子に限られていたため、その殆どは農村の支配者である地主であり、天皇制を協賛する「地主議会」だった、という見方が定着していた。こうした見方が広がった背景には、戦前のコミュンテルンの「32年テーゼ」に縛られた「講座派」と呼ばれる学者・専門家の方たちが、近現代史研究において一時期大きな影響力を持っていたためである。
稲田氏は、こうした講座派のエスプリを自由民権運動中心に次のようにまとめておられる。
「”明治維新はブルジョア革命ではなく絶対主義の成立である。そして、自由民権運動こそは、明治維新によって成立した絶対主義政府に対するブルジョア民主主義革命運動であった。しかし、この運動は政府の激しい弾圧によって敗北した。明治憲法の発布と帝国議会の成立は、その敗北を確定したものである”」(2頁)
こうした考え方を、こつこつと丹念な実証によって論破して行かれるわけだが、講座派の考え方は、やがてソ連邦の崩壊を以て影響力を低下させ、それまで誰も否定しきれていなかった「衆議院議員は殆んど地主」という「公式」なるものも、新しい時代認識に基づく近現代史を研究する方たちの登場も相まって、21世紀に入る今日ようやく存在感は喪失する。
民権派の代議士達は、支持者の力による「財産」作りで選出へ
それでは、第1回の衆議院選挙を通じて選出された衆議院議員は、講座派の方たちが言うようにほとんどが地主だったのだろうか。「第1章『財産』はこうして作られた」において、直接国税15円を納税できていない自由民権運動家をはじめ、選出された衆議院議員のなかには、被選人になるのに必要な財産を持たないで選出されたものが存在する事を実証する。すなわち、支持者たちが土地の名義人を書き換えたことにより、被選任の資格を得た者の書類上の資産=「財産」を捻出する事に成功するわけだ。
その際、本人の意思とは関係なく、あるいは本人の意思に反してまで、支持者たちが、ある者を自分たちの代表の衆議院議員にしようとして、その「財産」を作ることを”勝手連型の「財産」作り”と呼び、著名な民権家である中江兆民の例を紹介している。
他方、国会議員になる意志を強く持っていた植木枝盛等民権活動家の強かった高知県での選挙において、支持者と共に用意周到に「財産」を作って自由派系の4人を擁立し、見事に当選させている。こうした事例を「win-win型」の「財産」作りと読んでいる。
自由民権運動で形成された「信頼」という「人格的財産」に注目
こうした「勝手連型」や「win-win」型の「財産」作りの事例は、全国に多く存在していたことを指摘し、いわば「支持者たちの信頼という『人格的財産』を持っていた」(88頁)と、自由民権運動の過程で創りだした成果の現れと見ている。第1回目からの総選挙は、「立候補制」ではなく、人によっては別の選挙区からも選出され、なんと第1回目で2人の当選人が別の選挙区からも当選する結果となり、後日2選挙区で再選挙が実施されている。
議会改革に奔走し、改革に大きな成果を上げた民権派の政治家
「人格的財産」でもって当選する事になった民権派の政治家である中江兆民や河野広中と言った代議士たちは、議会内の闘いに奮戦する。特に、河野広中、尾崎行雄、島田三郎の果たした役割は大きく、国会での予算案を審議すること自体を拒否する超然主義的な態度をとる首相・閣僚はいなくなり、予算審議は通常議会の最大の課題にまでさせて行く。国会での活躍によって、やがては政党内閣すら実現できるところまで改革が進められたことを高く評価すべきだと指摘する。自由民権運動は、こうして近代日本の民主主義の中に継承されていたことを強調している。
第1回総選挙の持つ歴史的意義と、「解散」という法律違反の暴挙
続いて「第2章 第1回総選挙はどのように行われたか」のなかで、4点についてこれまでの考え方の問題を指摘する。
一つは、制限選挙である。確かに、直接国税15円以上という制限があったし、女性も排除されていたわけだが、当時の世界で男女同権の普通選挙はどこでも実施されておらず、選挙人が国民の1,14%という数値も「偽り」の数値で、25歳未満の国民も含めた比率とすべきであり、正確ではない事を指摘する。
二つには、小選挙区制だったが、人口比で選挙区を確定するものの、選挙区内の被選挙権者が相対的に多かった農村地帯では不利に働いたし、結果として極端な一票の格差を生んでしまった。
第三に、「立候補」制ではない選挙でスタートしており、1925年改正でようやく立候補制が採用されている。その結果、2人同時に選出されるという出来事が起きたことは先述したとおりである。
その他、記名・捺印投票制や2人区の2名連記制もあったこと、さらに「7月1日」投票日制度がありながら、1度も守られることなく、時の総理の意向によって解散という悪しき慣例がその後も続く。1900年の改正で、7月1日投票日制度は廃止される。
稲田さんは、この解散が権力を持つ者によって恣意的に実施される事への厳しい批判を展開されており、今の時代にも「7条解散」として続いている事への怒りを持った指摘が鋭い。
「第1回総選挙辞典」を目指すべく、正確な当選人の実態把握へ
続く「第3章 第1回総選挙の当選人」において、本当に歴史家らしく丹念に資料を渉猟・調査・分析され、その現実を明らかにされる。300人の当選人の内訳として、士族111人,府県議経験者200人で新聞雑誌関係者が80人、代言人25人以上を確認されている。この選挙では、4つの補欠選挙と2つの当選更正があったことを指摘し、旧来の研究ではほとんど無視又は間違いがあるとされる。さらに、当選人の党派・会派の変遷も丁寧に事実を追いかけ、国会で編纂して正史(『議会制度100年史』『議会制度100年史 院内会派衆議院の部』第一巻1990年刊)と呼ばれるものにも間違いがあることを指摘する。
まさに、稲田さんはこの著作を『第1回総選挙辞典』としての性格を持たせたいと記しておられる。それだけ、丹念に正確な事実を集め、分析されているわけだ。
全国の第1回総選挙の闘いの実態を丁寧に分析・叙述されている
最後に、「第4章 第1回総選挙の選挙戦」が続いて記載される。旧来の研究では、民権派系候補者と政府系候補者との間で展開されたものとみなされる事が多かったが、実態は決してそうではなかったことを指摘される。
第一に、当選人の党派・会派の地域別特徴として、4つの分類しておられる。
①民権派が圧勝した地域 ②民権派が圧勝したとまでは言えないが多数を占めた地域 ③民権派がほぼ半数であった地域 ④民権派が少数になった地域、である。
①民権派圧勝地域は、四国、甲信越、北陸、関東ブロック
②民権派が優勢な地域は、九州と東北
③民権派がほぼ半数の地域は、近畿
④民権派が少数の地域は、中国と東海
もちろん、各ブロックのなかでも県ごとに違いがあることは言うまでもない。
第二に、民権派の相克として、栃木県(定員5名)の選挙戦を分析、田中正造はこの選挙区で改進党から連続して当選しているが、他の4選挙区は自由党系が強かった。
第三に、民権派の敗北した愛知県(定員11名)の選挙戦を分析され、民権派は1名しか当選できていない。特に、愛知県会の政治勢力も弱かったわけで、こういう県では民権派は進出できていない。
稲田さんは、総じて自由民権運動は地方レベルに継承されていき、府県レベルで力の強い地域は総選挙でも躍進しており、自由民権運動はいよいよ議会という国政を論議する場で、新たな展開を示していくことを強調する。自由民権運動を革命運動として位置づけ、その尺度からしか見ない者には「敗北」としか結論が出て来ないが、事実は決してそのようなものではない事を強調する。
本来続く予定だった2つの章、「第5章 当初議会における権限拡大の闘い」「第6章 立憲政治の始まり」を是非とも加えた『近代日本における立憲政治家の誕生』を読みたいのだが・・・
本当は、この後に「第5章 当初議会における権限拡大の闘い」「第6章 立憲政治の始まり」の2章を加え、タイトルも『近代日本における立憲政治家の誕生』とするつもりだったことを「まえがき」で記載されている。
ぜひとも、健康が回復され、この2章を加筆された『近代日本における立憲政治家の誕生』を刊行して欲しいと思う。とりわけ、今の時代の与野党を含む政治が、あまりにも国民の民意とかい離してしまっているわけで、それに対する警鐘を乱打するものにして欲しい。最近の稲田さんからのメールによれば、様態がますます改善していないだけに、その実現は「奇跡」を信ずる以外にないのかもしれないが、それでも何とか頑張って欲しいと思うのは、半世紀以上続いてきた親友としての心からの願いなのかもしれない。