2020年1月13日
独言居士の戯言(第128号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
カルロス・ゴーン「国外脱出劇」を、どう捉えて行けば良いのか
昨年末から今年の初めにかけて、ゴーン元日産会長の日本からの脱走劇とアメリカとイランのあわや戦争にまで行くのではないか、という対立が世界を大きく席巻し、未だにその余波が続いている。なんと、イランはウクライナの民間航空機を誤爆したことを認め、アメリカとイランの軍事衝突による余波を受けた悲惨な事故に胸を痛めてしまう。とりあえずの直接的な戦禍の拡大は免れる方向のようだが、どうにも中東地域の対立は「いつ火がついてもおかしくない火薬庫」になっている事は間違いない。もう一度「イラン核合意」の鞘に戻って欲しいのだが、安倍総理の中東訪問によって道が開かれるとも思えないわけで、再び国際社会の英知を結集できるよう祈るばかりである。
同じ特捜検察によって逮捕され有罪となった佐藤優氏の論評、
「ゴーン氏の知力と行動力に日本政府は完敗」(『週刊東洋経済』より)
もう一つの「ゴーン元会長の日本脱出劇」について、いろいろと論評が出始めている。今回の通信では、この問題に絞って問題を指摘していきたい。
非常に衝撃的だったのは佐藤優氏の『週刊東洋経済』1月18日号の常設コラム「知の技法 出世の作法」欄で取り上げ、「ゴーン氏の知力と行動力に日本政府は完敗した」を興味深く拝読した。とくに、佐藤優氏が自分自身も東京地検特捜部によって512日間も東京拘置所の独房に勾留された経験を持つだけに、今回の事件(脱出劇)にどんな問題を感じたのか注目した。
ゴーン被告が脱出を企てることは「合理的」な判断と見る
ゴーン被告が脱出を企てる背景として、これから裁判が始まったとして、どれくらいの時間が費やされるのか、最高裁まで徹底的に争うとしたら10年かかり、最高15年の刑だが12年を求刑し懲役8年前後の判決になると予想している。となると、ゴーン氏は現在65歳、18年後には83歳となるわけで、長い勾留生活に耐えられないで獄中死する事も予測されるだけに、ゴーン被告が国外逃亡を図る動機は十分にあったとみている。
しかも、もし仮に失敗してふたたび逮捕されたとしても、刑期は1~2年しか伸びないという。それなら、ゴーン氏には逃亡を実行する財力とネットワークがあるわけで、逃亡を企画したことは極めて合理的だと見ている。ちなみに、今回の逃亡劇で保釈金15億円が没収されたことは周知の事実だが、佐藤氏は逃亡劇を請け負った軍事請負会社には推定で「数十億円」の成功報酬が支払われるものと見ている。ただし、佐藤氏はそれ以上の収入が入ってくることも指摘している。今回の脱出劇に絡んだ出版とハリウッド映画化で収入と並んで英雄視されるわけで、その利益たるや計り知れないものがあるようだ。
まさに、「ゴーン被告の知力と行動力に日本政府は完敗した」とみている。
自分には「発言力と金」という特権があると豪語するゴーン氏
こうした佐藤優氏の見方を裏付けるかのように、ゴーン氏は10日レバノンの首都ベイルートで日本メディアの代表取材に応じ、今回の逃亡については弁護団には相談せず、「(日本の)人質司法を耐えているたくさんの人には、私が持っている特権がない。私には発言力と金がある。ほかの人にはできないことができる」(朝日新聞11日付社会面より)と語っている。
又、佐藤優氏は「問題は、保釈させた司法制度ではなく出入国管理だ」という事を指摘しているが、それも確かにそうなのだが、日本の特捜検察のあり方が問われていただけに、何故「人質司法」と言われる非人間的・前近代的な制度が現代の日本でまかり通っているのか、それを変えていく一つのチャンスだったことにも言及して欲しかったと思う。
細野祐二元公認会計士の今回の事件に対するコメントが聞きたい
その点について、同じように無罪を主張し続けて最高裁まで闘った元公認会計士細野祐二氏が、どんなコメントをされるのか注目したのだが、今の段階では公的な発言は出ていないようだ。私は細野祐二さんが書かれた『会計と犯罪 郵政不正から日産ゴーン事件まで』(岩波書店刊)を読みながら、今回のゴーン事件裁判を通じて日本の司法制度の中に巣くっている特捜検察制度や「検面調書」に過度に依拠することとなっている刑事訴訟法や裁判制度が、第二次世界大戦中の戦時立法の下で作られた人権無視の問題を持っていることなどを指摘されてきた。今回のゴーン氏脱出に対する多くの識者のコメントには、ほとんどこうした背景に迫る論評が少なかったことに残念な思いを持ち続けている。
辛うじて、元検事の郷原信郎氏の指摘が自身のブログでこうした日本の司法制度の問題を指摘さているぐらいだったわけで、別途私の書いた細野祐二著『会計と犯罪』の書評を添付しておきたい。ちょっと長い書評になっているが、日本の司法制度(弁護士制度の問題も含めて)の問題を理解するには絶好の著書だと思っている。「書評」だけでも一読していただければ、と思う次第である。
最悪なコメンテーター、テレ朝の高井元特捜検事の腹立たしい発言
特に、私自身が一番腹立たしい思いをしたのが、8日22時からのテレビ朝日のコメンテーターとして出演された高井元特捜検事のコメントであった。特捜検察の問題が出ると、必ずと言ってよい程テレビ朝日のコメンテーターとして登場し、特捜部寄りの発言を繰り返している。99,4%という有罪率について、確実に犯罪になる事件を厳選して進めているからこういう結果になるのだ、とシャーシャーと発言していて、何とも腹立たしく思った次第だ。というのも、何故特捜事件が存在しているのか、という原点に関わる問題なのだ。
何故、特捜検察という制度があるのか、日本と韓国だけに存在
すでに、何度も指摘した事だが、特捜検察制度は戦後の混乱した社会の中で、警察だけでは対応できない重大な犯罪を摘発するため、通常なら警察による捜査・逮捕、それを受けて起訴するかどうかを検察が担当するわけだが、東京・大阪・名古屋の3地検だけにある特捜検察は、検察だけで逮捕・起訴できることになっている。そのため、一度特捜検察に逮捕されれば起訴にまで同じ組織で以て進めて行くことになるだけに、逮捕され勾留されれば犯罪の事実を自白するまで検事の前で徹底的かつ強引(暴力すら在り得る)に取り調べが続けられ、調書として捺印した物が作成される。
その取調べは刑務所に勾留されたまま、弁護士の立会も認められず、罪を認めるまでは刑務所からは出されることがない。ほとんどの被疑者は、例え無罪であってもそうした地獄のような取り調べの場から逃れる為に、耐えかねて妥協し、署名捺印させられるのが現実だ。まさに「人質司法」と言われている事態が横行する事になる。
「検面調書」が「特信状況」として全面的に証拠採用される現実
こうして強引に作成された「調書」は、「検面調書」として裁判において「特信状況」と呼ばれる驚きの戦時刑事特別法の特殊規程の残滓によって、実に大きな証拠として威力を発揮する事になる。なにしろ、罪を認めたことに署名捺印した物であり、裁判官は、それをどんな状況で作成されたものであるのか問わないで証拠として採用する事になる。たとえ本人が否認し続けたとしても、他の被告が「検面調書」で自身を含めた犯罪を認めれば、それが大きな証拠となって有罪となってしまうのだ。村木厚子さんの事件のように、結果として「冤罪」の温床になっているわけだ。これが、特捜検察において起訴されれば99,4%の確率で有罪となる背景なのだ。
何故、このような「検面調書」のもとでの「特信状況」が出来上がったのか、それは第二次世界大戦に突入した戦時下で、時間をかけて裁判を進めることが困難となったため、戦時刑事訴訟法の改悪によって進められたことによるわけで、戦後75年以上経過していながら未だに戦時立法の下に置かれている事を見逃してはならない。
一度有罪ストーリー描けば、それに合わせた「検面調書」づくりへ
今回のカルロスゴーン事件の前、村木厚子さんが大阪地検特捜部に逮捕され、最終的に無罪となった事件において、担当した検察官が証拠改ざんという犯罪まで引き起こすに至ったことを記憶されているだろうか。このことの背景にも
特捜検察という仕組みが、一度特捜検察が逮捕・起訴したら「有罪のストーリー」を描き、どんなことがあっても有罪を勝ち取るべく被疑者を徹底的に取り調べ、「検面調書」を作成する事を貫く。そこは、法廷で新しく出てきた証拠などは「特信状況」によって無視されてしまってきたわけだ。
残念ではあるが、ゴーン脱出劇には彼なりの合理性があると納得
今回のゴーン事件は、こうした特捜検察のあり方を問う絶好の裁判になり得ると考えていただけに、個人的には是非とも頑張って欲しかったと思うが、ゴーン被告の取った行動については、1人の人生のあり方として考えた時、それもまたありなのかもしれない。日本の制度の改革は、われわれ日本人の手で堂々と展開していくべきなのだと考える今日この頃である。
ぜひとも、そうした観点から今回の事件を観ていただきたいと思い、以下、やや長文にわたる「書評」を添付しておきたい。
書評、細野祐二著『会計と犯罪―郵政不正から日産ゴーン事件まで』(2019年5月岩波書店刊)
人は無実の罪を着せられ、無罪の根拠となる確実なアリバイがありながら、どんなに裁判で争っても負けてしまい「犯罪人」のレッテルを張られ、一度しかない人生を台無しにさせられることを何と言うのだろうか。私の乏しい語彙集には、「不条理」とでも言うしか言葉が見つからないのだが、そうした「冤罪」に遭遇した者にとっては、言葉では言い尽くせない怒り、無念、非情さに精神を病んでしまう事もあるに違いない。
本書は、その怒り、無念、非情さを「犯罪会計学」にまで昇華させ、こうした「冤罪」をなくしていく為に何が必要なのか、自らのキャッツ事件と対比しつつ、2010年9月の厚労省村木厚子さん無罪判決を含む郵政三事件を主たる分析対象とし、日本の特捜検察を中心にした司法の問題点を鋭く告発した稀に見る優れた専門書であり、実に読みやすい啓蒙書でもある。さらに、昨年11月に勃発した日産カルロスゴーン事件をも分析対象とし、「犯罪会計学」の集大成と捉え、その行方如何によっては「特捜検察崩壊」の可能性にまで言及する警告の書でもある。一人でも多くの国民に、今こそ日本の異常な司法制度の根底的改革が、文明国として不可欠であることを是非とも知って欲しい。
本書を著した細野祐二氏は、2004年3月公認会計士として監査していた株式会社キャッツ粉飾事件に巻き込まれ、東京地検特捜部の190日間に及ぶ取り調べを受け起訴され、地裁・高裁、さらには最高裁まで一貫して無罪を訴え続ける。犯罪の有力な理由を覆すに足る確実なアリバイがありながら、2010年6月最高裁で有罪が確定する。「金をもらって粉飾決算を指導する公認会計士」としての烙印を押されつつも、冤罪を晴らすべく今日まで闘ってきた稀有な闘士である。有罪確定と共に公認会計士の資格を剥奪され、刑期を終えて公認会計士の再資格付与を申請したものの、却下され今日に至っている。秘かに公認会計士協会長選挙に出馬し、協会の大改革を目論んでいたとのことだが、この道からの改革は断念させられる。
「冤罪」であることを何としても晴らしたい、だが「私には再審請求の道がない」と心からの悲痛な叫びが本書に出てくる。戦後再審請求が認められた事件は21件に過ぎない。その中には経済犯罪事件はない。DNA鑑定技術の向上による有罪から無罪への転換事例など、物証のある事件だけなのだ。
細野さんは、「これこそが粉飾決算だ」という多くの企業の事例を調査・分析・研究され、それらの多くは『公認会計士vs特捜検察』『法定会計学vs粉飾決算』『粉飾決算vs会計基準』(いずれも日経BP社刊)等一連の著作を世に問うていて、多くの関係者(中には大鶴元東京地検特捜部長も愛読書と公言)に読まれ影響を与え続けている。結果として、日本における「犯罪会計学」の唯一の専門家になったわけだ。その細野さんは、さらに「犯罪会計学」を極めたいとイギリスのロンドン大学大学院入学まで進むも、執行猶予中でビザが儘にならずあえなく断念。その前後も、「犯罪会計学」を極めるべく調査・研究を進めつつ、一方で多くのクライアントからの企業立て直し案件を頼まれ、一時的な仕事とはいえ、見事な経営再建者としての力量を発揮された実態が、本書の「Ⅰ『あの日』からの私」の各章に生き生きと描かれている。おそらく、本格的な企業経営を目指されていたとしても、優れた経営者として高く評価されたに違いない。
その細野さんの有罪が確定した2010年6月から僅か3か月後に、郵便不正事件に絡んだ厚労省村木厚子さんの無罪判決が勝ち取られている。特捜検察に逮捕・起訴されれば99,9%有罪になる中で無罪判決は驚きであった。村木厚子さん自身も、「私が無罪を勝ち取れたのは幸運だったから」と述べておられる。たしかに、村木裁判においては、村木さん個人の人柄や家族、職場の多くの同僚・友人といった村木さんが培ってこられた人間としての力が大きかったことも確かだが、担当した弘中弁護士事務所や管轄となった大阪地方裁判所の横田信之裁判官という稀有な裁判官の存在など、幸運に恵まれたことも確かだろう。
では、細野さんが有罪になったのは、偶々不運だったという事だけなのだろうか。細野さんは、大阪地検特捜部が引き起こし、画期的な村木無罪判決を勝ち取るだけでなく、のちに特捜検察を揺るがす大問題にまで引き起こした郵政三事件、即ち「郵政不正事件」「虚偽公文書事件」「証拠改竄事件」に注目する。そこには、今の日本で進められている特捜検察の、あまりにも時代錯誤で理不尽極まりない刑事司法の進め方や、裁判における「特信状況」と言われる驚きの戦時刑事特別法の特殊規定の残滓が、未だ現代に残る刑事訴訟法の存在、検察に対抗すべき弁護士の持つ構造的弱点の数々、さらには、司法に望む国民の意識の抱える問題にまで言及される。この郵政三事件を通じて、今日の特捜検察体制の持つ「構造的な冤罪を生み出す問題点」を抉り出し、最終的には特捜検察を解体しなければならない事を主張する。
そのためにも、昨年11月に突如として発生した日産・カルロスゴーン事件にも注目する。東京地検特捜部が特捜検察の汚名を挽回すべく引き起こした事件であり、ゴーン氏らは有価証券虚偽記載事件と特別背任罪で起訴されている。担当の主任弁護士は、元東京地検特捜部長大鶴基成氏から、あの村木事件で無罪を勝ち取った弘中惇一郎氏へと交替し、事件は犯罪の事実そのものを真正面から争うガチンコ勝負が展開されつつある。この日産カルロスゴーン事件の帰趨は、文字通り特捜検察制度の行方を占う事件であり、細野さんの『会計犯罪学』の集大成になるものと分析に力が注がれている。
もう一つ、なぜ粉飾決算が多発するのだろうか。細野さんは、公認会計士や監査法人は、会計士業務を実施する企業から支払われる報酬で賄われている事に、粉飾決算を誘因する構造的要因を見出している。そうした弱点を持つ公認会計士監査だけに監査の責任を負わせることに無理があるのであり、欧米では、多くの民間団体が財務諸表危険度分析を行っており、「監査法人を含む多元的な上場会社の財務諸表適性性監視体制」が社会全体として機能している事に注目。細野氏は、自分が進めてきた粉飾決算分析をアルゴリズム化しIT専門家に頼んでソフト開発に成功、1社でも100社でも20秒足らずで粉飾決算の危険度を示すことができる「フロードシューター」と名付けたシステムを創り上げ、既に分析作業が進められつつある。また、多くの民間人にフロードシューターの技術の講習を進めており、必ずや粉飾決算を失くしていくことができる時代になりつつあることも指摘しておこう。
では、一番肝心の郵政三事業における問題点についてより詳しく見ておきたい。
郵政三事業の始まりは、第三種郵便の内もっとも割引率が高くなる障碍者郵便物の取り扱いに係る不正事件であった。障碍者団体の定期的に発行する郵便物が実に格安で郵送される事に眼を付けた営利企業が、障碍者団体の審査が形だけになっていて事実上無法地帯となっていた事を悪用したのだ。郵便会社にしても、大量に郵便物を扱う事で損はしていないだけに、詐欺罪の適用すらできない微罪でしかなかった
凛の会と称する団体が大阪地検特捜部によって関係者の逮捕・起訴されるに至る前に、検察幹部から「こんな微罪は特捜部のやることではない」という意見すら出ていたが、「法人税違反や有印私文書偽造を抱き合わせて」重大事件化しようとしたようだ。結果的には10人以上の逮捕・起訴されたものの、首謀者の3人は別として10人は罰金刑と言う微罪でしかなく、特捜部が大量の逮捕までする事件ではなかったことは言うまでもない。警察による事件化で十分だったわけだ。
そこで、地検特捜部として目をつけたのが、この事件で凛の会に出した障碍者郵便制度に該当するとした公文書が発信され、その文書発行者としてキャリア官僚の村木厚子課長(当時)の公印が捺印されていたこと、凛の会の関係者が大物国会議員石井一氏に働きかけたのではないか、と言うことで慌てて立件したのだ。その証拠たるや、まことに杜撰なものだったが、とにかく村木逮捕へと発展していく。ここで、大阪地検特捜部は事件のストーリーを次のように描く。
凛の会→石井一議員→村木課長→公文書を許可
アリバイが出て来ても、このストーリーで以て突っ走っていくことになる。途中段階で、公文書発効日のフロッピー書き換え(改竄)が行われ、検察側のストーリーが担当検事たちによって覆えかかった際にも、特捜検察の何時ものやり方で強引にストーリーを強行してしまったのだ。
結果として、村木裁判では、弘中弁護団による懸命の努力と闘いだけでなく、実証的な証拠を重視する稀有な存在と言われた大阪地裁の横田信之裁判長によって、「検面調書」を無条件で重視する「特信状況」を、証拠と異なる「検面調書」を採用しないで、無罪を勝ち取ることに成功する。横田裁判長という証拠を重んじる大阪地裁での裁判を進めた弘中弁護団の判断は、村木裁判を無罪にすることに通ずる英断であり、その事にかかる時間と費用の持ち出しは普通の弁護士ではありえない事だと言う。
一方、この検察側のストーリーの延長線上に、この一連の特捜事件の主任検事だった前田氏による「フロッピー書き換え事件」という前代未聞の特捜検察のスキャンダルが発生する事になる。つまり、村木課長名で出された公印の日付が、事件で検察側のストーリーと会わなくなってしまうため、証拠となるべき郵政省の係長の作成した公文書作成の日時を、フロッピーで記載された日時から、検察が想定した日時に合うようにねつ造してしまったという事件である。この捏造事件は、村木さんの無罪判決が出た直後の9月21日に、朝日新聞がスクープして満天下の国民が知るところとなる一大事件になり、その後担当検事と地検特捜部長、副部長が犯人蔵匿罪で逮捕・起訴され有罪となる検察体制を揺るがす大事件であった。本来であれば、特捜検察を崩壊させるに足る重大な事件足りうるのだが、大阪地検特捜部長、副部長、主任検事の逮捕・有罪判決で逃れることになってしまった。
ここまでが、大阪地検が関わる郵政三事件の概要である。
さて、この大阪地検特捜部が関わる三事件の何が問題視されなければならないのだろうか。
先ず第一に、特捜検察とは何なのか、それはどうして存在が認められているのか、という事にある。
普通の犯罪の場合、警察による捜査・逮捕があり、次いで検察による取り調べによる起訴と言う形で裁判に持ち込まれる。ところが、特捜検察は逮捕と取り調べ・起訴を検察だけで進めて行くシステムであり、一度逮捕してしまうと何としても起訴に持ち込み、有罪を勝ち取らなければならない事となる。つまり、警察と検察が相互に牽制しあうのではなく、特捜検察だけは誰からも牽制される事がないわけで、独走しやすい弊害を露呈する。こうした制度が先進国で存続しているのは日本と韓国ぐらいだと言われている。「巨悪は眠らせない」というスローガンの下で、警察では到底太刀打ちできない大物政治家や高級官僚の巨悪を対象にしてきた歴史があり、ロッキード事件など国民の意識の中に、正義の味方として強く記憶されてきた栄光の歴史を持ってきたことも事実である。だが、今日ではその弊害が露呈してきており、郵便事業事件においても、大阪地検特捜部が取り扱うには余りにも微罪でしかない犯罪を、ひとたび特捜部案件にしてしまうと勝手に犯罪のストーリーを描いてそれに合う供述や、時には証拠をねつ造・改竄してしまうところまで進んで行くことになる。
特捜検察制度を廃止する事を強く主張する所以である。
第二に、「検面調書」「特信状況」という事である。「検面調書」とは、検事が逮捕された被疑者を弁護士の立会も無しに孤立した過酷な状況の下で取り調べ、自白をさせそれを文書にして本人の署名・捺印した文書であり、「特信状況」とは「検面調書」が公判廷での供述より信用できるとする特別な事情のことである。この「特信状況」の扱いは、最高裁の判例でも事の他緩やかになっており、特に特捜案件ではそうなることが多い。「検面調査」を絶対視する特捜検察の捜査手法があり、裁判所もそれに従うわけだ。例え被疑者本人が一貫して無実を訴えたとしても、事件関係者が検事の厳しい取り調べに屈し「検面調査」に署名捺印すれば、それが裁判で証拠として採用される事になる。多くの被疑者らは、時間的にも金銭的にも窮地に追い込まれ、自白をすることで早く楽になりたいとか、減刑をほのめかされたりして無実でありながら、結果として検察側のストーリーに従った調書に署名捺印してしまう事になる。
一度「検面調書」に署名捺印した物は、後でそれを後半で否定しようとも「特信状況」で裁判では絶大な効力を発揮する事になる。それ故、特捜部は「検面証書」獲得に全力を挙げ、有罪率99,9%という結果を獲得する事になる。細野氏は怒りを込めて「検察庁特捜部は、どんな人でも、これを逮捕して有罪にすることができる。そして事実としてどんな人でも逮捕して有罪にしてきた」(119頁)のだ、と言う。
村木厚子さんの裁判において、大阪地裁の横田裁判長はアリバイが存在していて、それと矛盾する検察の立証については「検面調査」を否定する考え方を取ったことに注目する。つまり「刑事訴訟法上の特信状況を客観的証拠と整合する範囲に限定して認める」と言う実に画期的判断を示しているのだ。村木裁判が横田信之裁判長であったと言う幸運、大阪に出向く時間や金銭を厭わず選択した弘中弁護士の選択、村木さんは幸運であったことは確かである。
ここで、弁護士サイドの問題について細野氏の指摘が重要である。それは、裁判所側は調査能力を持っていないため、検察側と弁護側のストーリーのどちらが説得力あるのか、によって判決を下すと裁判官の心証を読んでいる。その際、日本の刑事裁判で弁護側が勝てない根源的な理由について、弁護士側が検事側のストーリーに基づく膨大な調書を取ることに対抗できるだけの金と時間をかけられず、検察官立証に反論・反証を加えるだけ、これでは弁護側は勝てないとみる。
ところが、弘中弁護団だけは基礎的な調査を手弁当で行い、説得力ある弁護側のストーリーを作り上げ、それに実際に公印文書を勝手に捺印した上村係長の「検面調書」を覆す証言が加わり、見事に無罪を勝ち取ることができた。こんな金にもならない基礎調査を手弁当で行う弁護士は弘中氏以外にいない、とまで言い切っている。
さらに細野氏は、「Ⅲ犯罪会計学で何が分かるか」のなかで、数多くの経済案件の刑事事件を支援する中で気が付いた事として、
「その中で被告人の無実を信じて弁護活動を行う弁護士に出会うことなどほとんどなかった」(226ページ)とまで言い切っておられる。
背景にある、検察側の調査体制と弁護士側のそれとでは、月とスッポン程の差があるわけで、今後の司法制度の改革においては、こうした制度が持つ構造的な問題点をどのように是正していけるのか、問われているように思われる。
さて、村木さんの無罪判決後に出てきた前田主任検事のフロッピーディスク改竄事件の方に移ろう。大阪地検の大坪特捜部長は、逮捕され有罪になった後で文芸春秋社から無実と主張する本を上梓した。前田主任検事のフロッピーディスクの書き換えは、故意ではなく過誤であり、過誤であれば前田検事は無罪、無罪の人を犯人蔵匿罪は成立しない、と主張している。改竄の経過については、「第7章大阪地検特捜部」のなかで、地検内での生々しいやり取りが詳述されている。特に、実行した前田主任検事と佐賀特捜副部長とのやり取りなど、とても「過誤」だと主張しきれるものではない。
それどころか、村木裁判での無罪判決による『特捜検察の冤罪構造』が問われた直後のフロッピーディスク改竄が朝日新聞で暴露され、前田検事の逮捕、10日後には大坪特捜部長、佐賀副部長の逮捕へと展開し「大阪地検特捜部の不祥事」へと大転換したわけだが、これでは最高検察庁にとって実に都合がよすぎると細野氏は全面批判していく。つまり、最高検の小林検事正は、フロッピーディスク変更は過誤ではなく意図的にやったに決まっている、と述べ、無実の人を起訴したのだと言わなければおかしい。もし、それが真相だとすれば、小林検事正も犯人蔵匿罪になる。
この点に関して、細野氏は大阪地検特捜部長・副部長の判決文を読んで、本来刑法194条によって「特別公務員職権乱用罪」で立憲しておくべきだったと批判する。そうであれば、二人は執行猶予になることは出来ないだけでなく、検察体制全体にまで及ぶ犯罪として特捜検察崩壊すらもたらしたであろう、とまで言い切る。つまり、二人の有罪によって、とりあえず特捜検察は救われたことになる。
こうした中で、「検面調査」による「特信状況」について、フロッピーディスク改竄問題で冒頭陳述で展開するストーリーに重大な齟齬が出たと検事が知ることとなり、いったんは「過誤」でもって収束する。その際、心ある大阪地検特捜部の検事らが「客観的証拠」と「検面調書」が矛盾した場合、「客観的証拠」を優先させるのに対して、大坪特捜部長が「客観的証拠が間違っている」として「検面調書を優先させるべきことは揺るぎないと考えているわけで、この狂った証拠評価思想は、特捜検察固有の思想になっている」(196頁)との指摘は重い。背景には、戦時刑事特別法の残滓が依然として現行刑事司法を支配している「特信状況」が厳然と存在しているわけだ。
大阪地検特捜部で起きた証拠捏造事件は、偶々起きたものなのだろうか。細野氏は、特捜検察は自ら描いた犯罪のストーリーに会うよう供述証拠の捏造などいつもやっている事で、特捜検察にしてみれば物証の改竄は今回初めて見つかっただけの事で、本質は、いつもやっている供述証拠の捏造と変わることがないと断定している。恐るべき特捜検察なのだ。
では、村木判決以外に経済犯罪において無罪判決となった最近の事例として、長銀と日債銀の最高裁における無罪判決と高裁差し戻しの上無罪判決が勝ち取られている。背景には、刑に問われた役員の方達は、いずれも後始末を頼まれたに過ぎないのに、犯罪人にされるのはおかしいと言う国民的な世論の盛り上がりがあったからだと見ている。
それだけでなく、日債銀の場合、公債までの審議の中で粉飾の事実を正面から弁護団は争わず、最高裁の差し戻し判決の中で、『粉飾そのものを争うべきだ』と裁判のやり方にまで示唆している判決となっている。それを受けて、逆転無罪を勝ち取ったわけだ。細野氏はここに問題を指摘する。経済犯罪において、粉飾があったのかどうか、真正面から戦いを挑む弁護士が余りにもいない事に警鐘を乱打する。自らのキャッツ事件においても、粉飾の事実を認めた「甲号証の同意」がある中で、自らはきちんとそのことを知らされることなく粉飾をしていないという法定陳述を繰り返しても、勝ち目はない。堂々と粉飾の存否をめぐって正面から戦わなければ、経済犯罪において勝ち目はないのだ。ただでさえ「検面調書」による「特信状況」が支配している今日、こうした闘いを展開しながら、特捜検察の解体や戦時刑事立法の残滓が残った刑事司法の前近代性の廃止を進めていく為にも、司法の場での正面からの闘いが今こそ必要とされている時はない。
最後に、裁判官の自由心証主義が最終的にはモノを言うわけで、最高裁は裁判が社会の常識とかい離する事を何よりも恐れる。結局のところ最高裁も世論によって大きく動かされるわけで、粉飾決算事件についても、粉飾決算とはこういうものだ、と言う事例を調査・研究・公表し世論を動かそうとされているわけだ。
その際、日本の国民の持つ特有の問題についても指摘する。それは「疑わしきは罰せず」が一般的なのに、日本国民は「一人の犯罪者も逸してはならず、また、1人の無辜も出してはならない」という恐るべき厳密性を求めることだ。その事の困難性は、言うまでもあるまい。