2020年5月4日
独言居士の戯言(第142号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
蟻川恒正日大教授の朝日新聞寄稿文「その国の7年半」を読んで
5月3日は憲法記念日であり、当然のことながらマスコミ各紙も憲法についての記事が多くなっている。だが、今年は前日の2日の朝日新聞において、なかなか読み応えのある論文が寄稿され、実に興味深く読むこととなった。というより、この間の安倍第2期政権になって以降の憲法に抵触する様々な重大な出来事を、憲法の基本的なありようとの関係で、これほど解りやすくて心底に響き、理路整然とした論文にはあまり接したことがなく、読み終えてなお心に残り続ける深刻な思いを禁じえなかった次第である。あまりにも安倍政権のひどさを思い出させてくれたからだろう。
前置きが長くなってしまったが、オピニオン欄に「憲法を考える」『その国の7年半』の表題で、「脱法厭わぬ権力中枢 従う『配下』も共犯 法秩序はほとんど破壊」「現政権が滅しても病巣は根治しない」と題して「寄稿」されたのは憲法学者の蟻川恒正日本大学教授である。冒頭から「さる国のお伽噺である」と始まるが、読んでいくうちにこの「お伽噺」が安倍政権の下での日本の現実であることが直ぐにわかる。その比喩的な「お伽噺」から、一転して安倍政権の7年半の政権のありようを振り返っていく。2014年には内閣法制局長官を替えてまで閣議決定で集団的自衛権の行使を合憲だとさせたこと。今年に入った2020年には、検察庁法22条の下で検察官には適用されないとする39年間疑われなかった政府解釈を、新たな政府見解を発しただけで変更し、一人の検察官の定年延長を強行した。
内閣法制局長官人事と検察官定年延長による法解釈変更の意味するものの重大性、法の秩序の崩壊へ
われわれが大問題だと指摘してきたことについて蟻川教授は、前者については「憲法ができないとしていることを一内閣でできるとしたことにより、憲法改正規定(憲法96条)を裏から侵犯したこと」だと批判する。後者については、「内閣総理大臣をも訴追しうる権限を持つのが検察官である。検察官の定年規制を政府見解のみで反故にすることを許せば、政権の言うことを聞く検察官は定年を延長し、聞かない検察官は延長しないとすることができる。政権の存亡にかかわる刑事事件が、その政権の手に落ちる」と述べる。
この二つの法解釈変更は、「単なる違憲や違法の法運用ではない。政治権力を法で拘束する立憲主義それ自体を骨抜きにする、違憲や違法の法運用」だと批判する。それだけでなく、内閣法制局や法務省幹部職員のそれぞれ首根っこを内閣人事局がつかんだことにより、「国の法をつかさどる機関の責任者」が唯々諾々とこれに従ってしまい「法の秩序は、ほとんど破壊された」と厳しい。
国民の保持する憲法改正権の内閣による簒奪、国会の有する法律制定権の内閣による掠め取りではないか
批判はさらに鋭さを増す。「憲法改正によらなければ認められないとされた集団的自衛権の行使を閣議決定で合憲したことは、国民が保持する憲法改正権を内閣が簒奪したことを意味する。検察庁法改正案の提出前に検察官の定年延長を実現したことは、国会が有する法律制定権を内閣が掠め取ったことを意味する」として、要するに安倍政権は「権力分立の根本を掘り崩した」ことを批判している。それは、「法ができないと言っていることを、法を変えもしないでできることにする」わけで、無理筋の法解釈と知りつつその正当化をさせられていく。内閣法制局長官や法務大臣の答弁がその場しのぎのつじつま合わせに終始し、必要な「協議文書」や「決裁文書」が残せなかったわけで、この国の官僚機構が限界に達した痛ましい症例と述べる。
法治国家の崩壊、法改正せずに法解釈でお茶を濁してはいけない
かくして法治国家が崩壊させられたことを、政権中枢とそれに追随する「配下」の者たちの共犯関係にみているわけだ。過去の政権においては、長く確立した政府解釈により違憲や違法であることが明らかな事項を、「新しい判断」一つで合憲や適法にしてしまう政権は現政権以前にはなかったわけで、法改正をしないで法解釈でお茶を濁すことは断じて認められないことを強調する。
かくして蟻川教授は最後に次のように現政権を批判される。
「権力の発動を権力者の自由にはさせないという法の存在意義そのものをうやむやにする現政権の政治に一貫する違憲性は、憲法99条違反を持って刻印するのでなければその問題性を十全には表現できない性質のものである」と。
こうなる「政治の型」は、民主党政権や小泉政権から続いて生成へ
そして、最後に次のような指摘がなされている。
「政治の型は政権の生滅を超えて稼働し続ける。ましてその基礎が 民主党政権以来の政治主導、小泉純一郎政権以来の官邸支配にあるとしたら、型の完成が導く法の秩序の破壊を現政権と結びつけるだけでは病巣の根治には至らない。
お伽話の続きを書くのは、その国に現に生きている人々である。」
自分も関与してきた現代日本政治の歴史を振り返るとき、「政治主導」を唱えていた民主党時代には「内閣人事局」的な発想を持っていたことは事実であり、なかなか決められない官僚主導の政治に対する批判的な意識が強くあったことを忘れることはできない。改めて、自分たちの犯してきた問題点を深く認識することなく、政権交代を叫び続ける姿には同情というよりも「あわれ」を感じてしまう今日この頃ではある。それにしても、寄稿された蟻川教授の発する言葉の鋭さには、ただただ「お見事」というほかない。
朝日新聞書評欄に石川東大教授の蟻川教授『憲法解釈権力』が掲載
ちょうど同じ日、朝日新聞の書評欄で蟻川教授の書かれた『憲法解釈権力』(勁草書房刊)を、憲法学の石川健治東京大学教授が書評されている。日本において最高裁判所が統治行為について憲法解釈権力を内閣に移動し、安倍政権の下での状態は先述したとおりである。そうした中で、この著書の提示する「憲法遵守の型」について触れ、これにより憲法の最高法規性を公権力担当者の法解釈行動の次元で確保することが本書を貫く強固な実践的な意図があると指摘する。蟻川教授のこの著書を読んでみたくなった次第である。
樋口陽一東大名誉教授、3冊の民主主義に関する書評も掲載へ
さらに、この日の読書欄では、樋口陽一東大名誉教授が憲法について書かれている。明治期の井上毅と中江兆民に焦点を合わせた山室信一著『法制官僚の時代』(木鐸社刊)、大正デモクラシー期以降の石橋湛山について松尾尊充編『石橋湛山評論集』(岩波文庫)、戦後民主主義について三谷太一郎著『戦後民主主義をどう生きるか』(東京大学出版会)の三冊を取り上げ、それぞれ論評されている。明治維新と自由民権運動以来、日本におけるデモクラシーがどのように展開されてきたのか、安倍政権による立憲政治が壊され続けているだけにしっかりと頭の中に読み込んでいく必要性を痛感させられる。
3日の憲法記念日の前夜祭的な朝日新聞の取り上げ方だったようだ。
郷原元検事のブログ、参議院広島選挙区政治資金問題への提言
新型コロナウイルスと並行して操作が続けられている参議院広島選挙区での政治資金問題について、元検事の郷原信郎氏が自身のブログ「郷原信郎が斬る」(5月2日刊)の「『選挙収支全面公開』での安倍陣営”敵中突破”が、河井前法相の唯一の『逆転の一手』」と題して発言している。その前の記事「『検事長違法定年延長』のブーメラン、河井前法相”本格捜査”で安倍政権『倒壊』か」が4月27日であったわけで、1週間のうちに2回にわたって同じ問題をかなり長文で取り上げられている。ひょっとすると、この問題についても検察内部にコロナショックで緊急事態宣言が出されている中では、これ以上密室での密着した取り調べに対する自粛する気分が出始めているのではないか、とすら勝手に想像してしまう。
河合前法務大臣、政治資金収支の全容を包み隠さず全面公開を提案
詳しい内容については直接ブログを読んでほしいのだが、この事件に関しては検察側に「正義」があり、感染リスクがある中での検察捜査の長期化を避けながら、社会的・政治的重大性を考えれば有耶無耶にすることなく解決すべきことを主張される。そのために河井克行氏に求められることとして、「少しでも早く、現金配布が、どのような資金によって、どのように行われたのかを国民に公開すること」こそが事態収取するために最も効果的な方法だと提起する。具体的には、政治資金の収支を全面的に明らかにし「金の流れを、法的に全面開示する」こと、そして記者会見を開くなどしてすべてを包み隠さず説明することを提唱している。そのことで、安倍首相を含め、与党・政権幹部が巨額の選挙資金の提供にどのように関わったのかも、おのずと明らかになると指摘。
今こそ、公職選挙法「収支の公開」を実現させ「汚名挽回」を
このことは、過去公職選挙法が目的とする「収支の公開」が十分に実現されていなかったことを、大きく変えていく前例になり、日本政治の「宿痾」だったともいえる政治資金の流れの不透明性を払拭し、公職選挙の歴史が変わるとまで指摘しておられる。もし、それができれば前法相として政治的・社会的責任を果たし、公職選挙の透明化に貢献でき、その「功績」たるや公職選挙法違反で処罰される「汚名」より高く評価されるが、果たして、河井克行氏に”敵中突破”ができるかどうか、と問うてブログを終えておられる。
これからどんな展開を示していくのか、われわれも固唾をのんで見守っていくしかないが、くれぐれも検察側が腰砕けになり有耶無耶にならないことを心から願うばかりである。立憲主義に基づく法治国家であるかどうか、検察の在り方も今まさに問われている。