2020年7月20日
独言居士の戯言(第152号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
「チャランケ」とは、アイヌ語で談判、論議の意、「アイヌ社会における秩序維持の方法で、集落相互間又は集落内の個人間に、古来の社会秩序に反する行為があった場合、その行為の発見者が違反者に対して行うもの、違反が確定すれば償いなどを行って失われた秩序・状態の回復を図った」(三省堂『大辞林』より)
今週号は夏休み直前であり、またコロナ禍の下でもあることから、諸富先生から今年1月に送ってくださった本の書評としたい。3月ごろに掲載したいと考えていたのに、遅くなったことをお詫びしたい。
書評 諸富徹著『資本主義の新しい形』(岩波書店1月刊)
はじめに 諸富先生との出会いと思い出
本書の著者諸富徹氏は、現在京都大学大学院経済学研究科の教授として財政学と環境問題を中心にしながら活躍されている。私自身議員時代から、その著作には早くから目を通させて頂いていた。とくに税制の問題で野党時代の民主党が「環境税」の導入を目指そうとしていた時、諸富教授は横浜国立大学におられ、大変参考にさせて頂いた事を記憶する。民主党政権時代には、税制調査会の場でもご一緒させていただき、多くの貴重な意見を直接拝聴する機会もあり、それ以降も注目し続けてきた税財政・環境問題の優れた専門家の一人である。
諸富先生を紹介して下さったのは、たしか神野直彦東京大学名誉教授であったと記憶する。この新著『資本主義の新しい形』は、岩波書店から「シリーズ現代経済の展望」の1冊として発刊されたわけだが、このシリーズの共同企画にあたられたのが神野門下生である井手英策慶応義塾大学教授であったことも、諸富先生が神野先生の門下生の方達と共通の問題意識を持たれている事を伺わせてくれる。既に、共同企画者である井手教授は、このシリーズの第5回配本として『経済の時代の終焉』を5年前2015年1月に刊行されている。諸富教授は52歳、井手教授は48歳、まさに働き盛りの年齢を迎えておられ、日本の財政学会などで活躍されている事は周知の事実であり、私が紹介するまでもない。
今回の諸富教授の新著は、「あとがき」によれば、既に2003年に岩波書店から出版された『思考のフロンティア 環境』執筆時に遡るようだ。この書物において初めて「資本主義でいま起きている変化を捉えて、資本主義の『非物質主義的転回』という用語を用いた。そこでは、資本主義が20世紀の物質主義的な資本主義から離れつつある契機を捉えて、それをどのように環境と調和した『持続可能な発展』の経路へと持ち込んでいくか、という問題設定」をされ、それを今回全面展開されたと述べておられる。最近の「停滞する日本経済」を含め、資本主義のあり方をどう考えて行けば良いのか、それを考えるには最適な著書がタイミングよく発刊されたことを喜びたい。コロナ禍の下で書斎に引きこもることの多い今日この頃でもあり、出来る限り多くの皆さん方に読んでいただければと思う次第である。
1、著書の概要
前置きはそれぐらいにして、さっそく中身に入って行きたい。
「はしがき」のなかでは冒頭、本書が取り組む3つの課題を提起される。
①資本主義はどこへ向かうのか
②「資本主義の新しい形」における市場と国家の関係
③日本企業、そして日本経済の将来像は
日本資本主義がバブル崩壊以降停滞しているのは何故なのか、諸富教授は1970年代以降に進展した資本主義の変化、即ち「資本主義の非物質主義的転回」についていけなかったことをあげる。
新しい資本主義=「非物質化」に追いつけなかった日本、停滞へ
それは、日本企業の経営のレベルで情報化の進展による市場支配力が「作り手」から「顧客へ」とシフトし、「ものつくり能力」ではなく「顧客情報の起点たる現場を支配できる能力」へと転換し、それが新しい時代の経済を動かすのだと見ている。それは、70年代に芽生え、眼前の2010年代に大転換しているプロセスで、グローバル化、金融化、知識経済化等が進行することを「非物質化」ととらえ、価値の担い手や投資も「非物質化」が重要になる。人間の頭脳こそが価値を生み出す源泉となる「新しい資本主義」への転換ととらえる。
こうした新しい資本主義は、果たして持続可能で公正なものになり得るのか、持続可能性では、環境問題が深刻となり、脱炭素社会への取り組みが待ったなしとなる。また、公平さについても、新しい資本主義は再び格差拡大と貧困を生み出している事をどうするのか、問題を提起する。
かくして、成長、環境、公正を成り立たせる「社会的投資国家」の道を提起し、人的資本への投資と脱炭素経済に向けたカーボン・プライシングの導入を提起する。
以下、「第1章 変貌しつつある資本主義」において、世界的な資本主義の変化としての「非物質化」が進展する中で、投資と賃金の伸び悩み、格差拡大と消費低迷、資本主義のダイナミズムが失われ経済は長期的停滞へ。
次の「第2章 資本主義の進化としての『非物質主義的転回』」において、1960年代以降長い時間をかけて徐々に非物質主義的転回が進んできたことを説明する。
と同時に、経済学説史上「非物質主義的転回」をどう位置づけるのか、経済成長論の問題を解いている。結論として、成長論のパイオニアであるソローから始まり、アローやローマーさらには日本人経済学者の宇沢弘文やルーカスらの成長論を紹介し、最新のマンキュー・ローマー論文によってアメリカケインジャンも新古典派のルーカスも「人的資本の役割抜きには成長論は語れない」ことで一致したと見ている。つまり、理論の世界でも『経済学の非物質主義的転回』が完遂したものと評価されている。
こうした新しい資本主義の下で、無形資産の重要性が指摘されるのだが、経済理論には上手く組み込めていない事を指摘し、無形資産のストックとフローの投資に注目すべきことを強調する。アメリカの企業向けシンクタンク「ザ・コンファレンス・ボード」の研究を引用して、3つの研究結果を紹介する。
①無形資産投資が1990年代急速に伸長した
②その投資は有形資産と同程度だったこと
③経済成長率はそれを反映して、今のデータより高かった可能性が高い
かくして、サマーズ教授が指摘する資本主義の停滞論には、無形資産が反映されていなかったとみて、GDP統計の整備の必要性にも言及し、日本の無形資産投資が低いことが停滞を招いていると指摘する。どうやら、日本企業はモノ作りの延長で対処しようとしたことに、非物質主義的転回への不適合があったと指摘している。
では、その製造業はどうなっていくべきなのか、「第3章 製造業のサービス化と日本の将来」で詳しく見ている。
製造業の生産性において1980年代の世界一から、2016年には15位へと転落へ。日本製造業における人的投資・設備投資が行われていない現実、モノ作り信奉が強すぎ、経済の非物質化のトレンドがつかめず、ビジネスモデルの転換に失敗。日本のICT投資は、社内業務効率化のための手段でしかなかった事を指摘する。
次に、「脱炭素化」の動きを分析する。日本はオイルショックからの脱出で見せた良好なパーフォーマンスが失われ、いまや環境後進国となってしまった。産業構造の転換が求められ、カーボン・プライシングを導入し、炭素税や排出権取引制度を導入する必要性を力説する。
日本は、得意とする製造業のサービス化を進めることにより、モノづくりの視点からではなく、消費者視点からの製造業のあり方の見直しの重要性である。ここで、いいものを作れば売れるはずだ、という主観主義は通用しない事を指摘している。
「社会的投資国家」の原点、レーンメードナーモデルを重視へ
いよいよ「公平」の観点からの分析が「第4章 資本主義・不平等・経済成長」において展開される。
先ず、現代資本主義の進展が「人的資本の質、知識、学習、創造性、柔軟性、コミュニケーション能力に依存」する事になる。その下で、「不平等と格差の拡大」が進むことを、ピケティの指摘やIMF,OECDまで警鐘している事を見ても明らかとなる。最近では、オーターMIT教授の研究で中間層の仕事が減少し、所得格差が二極分解していることに触れ、AI化は、定型的な仕事を奪う事にも言及している。これに対処するには、ベーシックインカム導入には否定的で、AIに対抗できる「人的資本への投資」に向けた政府による「社会的投資国家」の必要性を強調する。
この「社会的投資国家」は、ギデンズの「第三の道」で取り上げられたのだが、諸富氏は1940年代にスウェーデンのミュルダールの人的資本論や1950年代の「レーン=メイドナー・モデル」による積極的労働市場政策の理論化によって「社会的投資国家」概念は形成されてきたことを重視する。
諸富氏は、「分配国家/福祉国家」から「ヒトへの投資の社会的投資国家」への転換は、ケインズによる経済政策と決別をもたらすとされている。それは、「短期的視点に立ち、景気に対する反循環的な財政政策」ではなく、供給側を重視し、社会に必要な財政支出を投資として長期的持続的に実施するわけでケインズとは対称的と見ておられる。一見すると、供給重視の路線と近似しているが、国家のあり方や役割について大きな違いがあり、「市場に任せては投資されない人的資本、自然資本、社会関係資本に投じる点で異なっている」と見ておられる。
供給サイド重視の経済学とは、経済のグローバル化の下での競争力の強化の必要性で似ているわけだが、社会的投資国家は「公正な社会」構築を目標にしており、国家の財政給付ではなく教育や職業訓練の形で人的投資し「所得を得る機会を均等に保証することで担保される」し、知識経済化への対応からも正当化されると見ている。さらに、アスピン・アンデルセンを評価され、子供や女性への福祉支出も長期的には成長への投資と考えるべきだとも指摘。
かくして、福祉国家の正当化理論の再編成、即ち人への財政支出は「消費」から成長を促す点で「投資」へと転換させていく。経済学的にも「内生的成長理論」にかなうものと位置づけられるとして、単なる「分配」ではないとする。
この「社会的投資国家」はスウェーデンにおいては「積極的労働市場政策」がすすめられ、「就労」に対する極めて高い価値を置き、競争力を失った企業は倒産させても、労働者は守り抜いていく、即ち失業給付だけでなく職業訓練によって転職を進めていくことで生産性を高める経済を創り上げたのだ。そのパーフォーマンスは、日本よりも良好な結果を示しているのも、日本では競争力を失った企業を、国家が救済する姿勢と好対照のなせる技なのだと主張。この考え方を提起したのがLO(スウェーデン労働総同盟)のエコノミストだったイエスタ・レーンとルドルフ・メードナーで、なんと1951年だった。その背景には、「連帯賃金政策」=「同一労働・同一賃金」が、労働者階級の企業を超えた連帯があったことに注目すべきだろう。
「社会的投資国家」への転換と脱炭素化に向けカーボン・プライシング導入を提唱
かくして「終章 社会的投資国家への転換をどのように進めるべきか」へと締めくくりに入っていく。
日本の企業は、非物質主義的転回に対応できていないこと、格差や不平等の進展し無形資産の重要性や脱炭素経済が進んでいないことを問題視する。
以下、資本主義の非物質主義的転回に向けた対応策として、次のA~Dを示す。
(A)人的資本投資(「積極的労働市場政策」)の拡充、「社会的投資国家」へ
(B)同一労働同一賃金の導入
(C)失業手当・家族手当・住宅手当の拡充
(D)脱炭素化へ向けた産業構造転換とカーボンプライシング導入
何れも社会政策の手段であり、同時に生産性を向上させる成長戦略として捉えている。
先ず、人的投資の拡充であるが、日本の最大の問題は企業でも政府でも人的投資が余りにも少ないことだと指摘する。特に、女性と非正規労働者があまりにも少なすぎる。税財源で賄う傷病、障害、家族、住宅、失業、積極的労働市場政策の分野では、極めて貧弱な水準にあることを問題視する。このことが、日本の経済成長に影を落としているとも指摘し、その一層の充実こそ重要だと強調する。
そうした中で積極的労働市場政策として、2009年7月の雇用保険法改正により「求職者支援制度」が設定されたことに注目している。特に職業訓練について、個別企業では限界があり、公共政策としての「積極的労働市場政策」の出番なのだ。と同時に、この政策によって成長戦略になるとともに、平等化政策ともなり得ることを強調。
次の、同一労働・同一賃金については、日本においてどのように定着させられるのか、とくに企業だけでなく労働組合にも産業構造の転換にむけて、雇用の流動化をせまる改革になるわけで、失業手当、家族手当、住宅手当のバッファをしっかりと創り上げなければ到底その実現は出来ない。スウェーデンでは先に見た「レーン=メードナー・モデル」こそが、生産性の低い限界企業を淘汰し、「創造的破壊」による高成長率を生みだす要因になったことを強調する。日本においても、政労使の三者が、こうした制度の導入に向けた話し合いの場を作り、日本経済の非物質主義的転回にむけて産業構造の転換を成し遂げて行くべきことを指摘する。
労働力人口が減少し始めた日本で、労働力が貴重な資源となってきただけに、最低賃金の底上げも含め積極的労働市場政策の必要性が高まったと見て間違いあるまい。
また、脱炭素化に向けた産業構造の大転換も、カーボン・プライシングによる炭素税の導入や排出権取引制度の導入によって進められていくべきことを強調する。ここでも、汚染度の高い企業から低い企業への労働力の移動が進められていく。
かくして、日本経済は人的資本と無形資産への投資によってその価値を高め、高収益を生み出す「デジタルサービス産業化した製造業」が、これからの生きる道なのかもしれない。同時に、脱炭素化に向けて、リップサービスではない真剣な取り組みが求められると結論付けている。
2、若干の感想
以上、やや長めの内容紹介となってしまったが、今の日本経済が抱えている問題がどこにあるのか、著者の強調したい点をしっかりと網羅しておくべきだと考えたからに他ならない。
以下は、私が読んだかぎりでの率直に感じた点について触れて行きたい。
一つは、成熟した先進国の経済の在り方についてである。確かに、戦後の高度成長の時代のように4%前後の成長をもたらした時代があることは確かであり、成長率の高まりが、さまざまな問題を解決してくれる大きな要因でもある。ただ、ピケティが『21世紀の資本』で示したように、資本主義の長期的なトレンドを見た時、人口一人当たり1.5%前後の成長率が普通なのであり、4%もの成長は第2次大戦後のアメリカに追いつき追い越すときにみられただけであり、追いついた後は再び1.5%程度で推移している。無形資産をGDP統計が含めて「いる・いない」の問題はあるにしても、高い成長率の追及はむつかしくなっているのが現実ではないか、という疑問がぬぐえない。政府が進めるべきは、社会保障や教育といった「社会的共通資本」を充実させ、そのもとで企業の競争が展開されイノベーションが生まれる土壌を作り上げていくことではないのか、ということである。その点で、やや成長の方に力点が置かれているように思われたのだが、思い過ごしであろうか。1~1.5%程度の成長率が30年続けば、そのもたらす現状破壊力は想像以上のものがあることも考えるべきかもしれない。
もう一つは、日本において同一労働・同一賃金を中心にした「連帯賃金政策」を展開する際、浜口桂一郎JILPT所長が的確に指摘されている「ジョブ型」雇用が大企業において定着していない中で(「メンバーシップ型」雇用中心)、どのように社会的・横断的な賃金決定が進められるのか、極めてむつかしい問題が存在しているように思われる。日本における「積極的労働市場政策」の展開を求めることに異存はないのだが、政労使三者会談を設定したとしても、下部構造の実態を簡単には作り替えられないほどの難問が待ち受けているように思われてならない。日本の企業別労働組合が中心になった労働組合において、どれだけの社会的・横断的な賃金決定を目指そうとしているのか、その際の「住宅手当」をはじめとした社会的な諸手当の充実・強化を目指そうとしているのか、なかなかむつかしい問題を抱えているように思えてならない。スウェーデンとの違いをどのように克服していけるのか、ここは是非とも知恵を絞る必要がある点だと思う。
さらに、ケインズ経済学について批判的に書かれているくだりがあるのだが、決して対立的に考えられるのではなく、21世紀に向けてケインズ経済学を発展させる立場と受け止めた方がよいのではないかと思われたのだが、素人に近い小生の思い違いであればお許しを請いたい。