2020年11月16日
独言居士の戯言(第168号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
「メンバーシップ型雇用」から「ジョブ型雇用」への転換の意味
雇用の在り方について、「ジョブ型」とか「メンバーシップ型」といった議論が経済界を中心に盛んに議論され始めている。日本経団連が今年1月に公表した『2020年版経営労働政策特別委員会報告』で、これからの時代には職務(ジョブ)を明確にした雇用制度である「ジョブ型雇用」の重要性を打ち出し、マスコミやネットの世界で「ジョブ型雇用」」とこれまでの日本の主要企業において主流の座を占めていた「メンバーシップ型雇用」の是非について、大いに議論が盛り上がっているようだ。
だが、このような雇用についての名付け親ともいうべき浜口桂一郎氏(労働政策研究・研修機構研究所長)は、最近の「ジョブ型」という言葉の氾濫に眉をひそめておられる。特に、「最近のマスコミにあふれるジョブ型論のほとんどは一知半解で、言葉を振り回しているだけ」だ、と11月5日付自身のhamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)で「メディアがばらまく『ジョブ型雇用』のウソ@産経iRONNA」を展開されている。いろいろとある中で特に目に余る2つのタイプを批判されている。その一つが日経新聞の記事で、労働時間ではなく成果で評価するのがジョブ型だという議論である。以下紙数の関係で、この問題に絞って論じてみたい。
名付け親の浜口桂一郎著『新しい労働社会』(岩波新書)は古典的名著だ
この問題について、分野が分野だけにあまり注目されてこなかった方も多いと思うので、私なりに少しく解説をさせていただきたい。もしかすると誤解していたりするので、詳しくは浜口所長が書かれた古典的な名著『新しい労働社会』(岩波新書2009年刊)を読んでほしい。「ジョブ型雇用」とは、ジョブ(仕事)内容などを明記した職務記述書(ジョブディスクリプション)に書かれた任務を遂行できたかどうかで賃金が支払われるだけであり、普通のジョブに成果主義などは馴染まないのだ。経営層に近い高度なジョブになれば成果について細かく評価されることはあるとしても、それは例外でしかない。
ジョブ型もメンバーシップ型も成果主義導入は困難なのだが・・・
これに対して、「メンバーシップ型」とは日本的な意味における「能力」や「意欲」を評価されているのだ。この「能力」という言葉について、「いかなる意味でも具体的なジョブのスキルという意味ではない」と浜口所長は強調する。「意欲」についても、要は「やる気」であり「往々にして深夜まで居残って熱心に仕事をしている姿がその徴表として評価されがち」だと説く。この場合、集団で仕事を遂行する日本的な場では一人一人の業績を区分けすることは難しく、これまた成果主義の導入は困難であると主張されている。
本来であれば普通のジョブ型には馴染まない成果主義を導入して、企業に忠誠を尽くすとともに、今まで以上に働かせようとする意図を露骨に述べているにすぎないと思う。日経新聞は、そうした個別企業の側の露骨な能力主義を鼓舞するべく、それこそが日本以外で一般的なジョブ型雇用なのだと間違った指摘を繰り返し続けているのだ。
日本経済新聞はなぜ誤った指摘を展開し続けているのだろうか???
なぜこんな間違いを、天下のクオリティ紙である日本経済新聞が堂々と展開しているのだろうか。それは、今の日本経済が直面しているデジタル化やグローバル化の下で、永い間に蓄積される企業内スキルだけでは大きく転換している世界経済に追いつけなくなっていることがあるのだろう。とくに、イノベーションに対応できにくくなった中高年労働者層にたいして、企業側は年功序列的に賃金を引き上げていくことの困難性を抱えているのだろう。高度成長時代から低成長へと転換し、若い学卒労働者を一括採用して企業内で時間をかけて一人前の労働者として仕立て上げていく日本的雇用(=メンバーシップ型雇用)の在り方は、終身雇用制や年功序列賃金、企業別労働組合とともに日本的労使関係を形成してきた大きな要因であったし、製造業を中心にした大企業においては、高度成長期にはそれなりにうまく機能してきた制度だったことは確かである。
だが、成長が止まり、グローバル化の下で海外との競争になる中で、デジタルインフォーメーション(DX)革命の進展は、主としてホワイトカラーの中高年労働者の存在価値を低下させ、年功序列型賃金の重圧が企業経営に重くのしかかってきたことは間違いない。そこで、こうした労働者の賃金=労務費コストをこれ以上上げることができないことを理由に、「ジョブ型雇用」と称して「成果給」「能力給」というものの導入を進めようとしてきたのだろう。
メンバーシップ型雇用は戦前の呉海軍工廠時代から続いてきた歴史
考えてみれば、メンバーシップ型雇用は既に高度成長以前から(戦前の呉海軍工廠の職工採用・育成から始まったという説がある)続いてきたわけで、今現在中高年になっている労働者は、採用直後では低賃金から始まり、毎年の定期昇給とベースアップによってようやく安定した給与水準に到達したと思った時、ジョブ型と称して成果給へと転換させられるわけで、若い時の苦労が報われないまま邪魔者扱いされてしまいかねない存在に追いやられているわけだ。これは、バブル崩壊以降、多くの企業でのリストラが実施されたわけだが、形は違えども、それに匹敵する働く者いじめになる危険性を指摘せざるを得ない。
連合は、経団連の「ジョブ型雇用」提案にどう対応すべきか不明?!
肝心の労働組合は、この経団連の「ジョブ型雇用」の提唱についてどのような態度をとってきたのだろうか。寡聞にして、この提案に対して真っ向から批判の論陣を張ったという報道には接していないし、こうした提案に連合を構成する民間の大企業労働組合は、事実上賛成(あるいは黙認)の立場に立っているのだろうか。グローバルな競争の中で、日本の製造業中心の民間労働組合は既に団体交渉力を弱体化させ始めて久しいわけで、こうした雇用政策の転換には無力でしかないのだろう。
日経連時代「職務給」導入の提案、鉄鋼経営陣は導入したが定着せず
私が1969年に鉄鋼労連に入った時、配置されたのが企画調査部で賃金問題から勉強することとなった。その時、八幡製鉄を筆頭とする鉄鋼大手5社には「職務給」制度が1962年から導入されていたのだが、徐々に職務給から職能給へと変わりつつある時であった。職務給こそは、職務評価(job evaluation)にもとづいてそれぞれの仕事の難易度の序列付けを実施し、それと賃率が結び付けられていた。つまり、溶鉱炉の炉前工と圧延工とではどれだけの違いがあるのか点数化し、賃率と結び付けられていたのだ。ホワイトカラーはジョブ・ディスクリプションだが、ブルーカラーはジョブ・エバリエーションとみていいのだろう。
職務給こそ「ジョブ型」雇用に対応した賃金制度、総評は生活給へ
当時、総評時代の賃金担当者の会合などの場で、この「職務給」の方が働く者にとっては恣意的な個人の能力評価(査定)がないだけ良い制度ではないか、と主張したことがある。だが、職務給に対して多くの民間単産の担当者は否定的で、結果として会社側は職務給ではなく、職務遂行能力に着目した給与体系へと転換させたことを思い出す。それだけ労働者の職務遂行能力という客観化できない恣意的な基準が賃金体系の中にはめ込まれたことが思い出される。当時の総評加盟の多くの労働組合にとって、生活給という電産型賃金体系こそが賃金論に根差した理想的な考え方であり、職務給とはけしからんということだったのだと思う。
採用した労働者を自在に使いたかった経営側にはジョブ型は無理
この鉄鋼産業に一時的に導入された職務給制度は、鉄鋼経営側が1955年生産性本部の調査団としてアメリカに出向き、フォアマン(職長)制度と並んで職務給制度の導入を図ろうとしたものだったが、1960年代半ば以降日本では定着することなく、職務給から職能給へとその性格を大きく変えられてしまった。日本では「職務」なるものが厳密に定義づけられたおらず、採用から配置や昇進が企業側の一存で決められ、学卒一括採用された労働者がどんな仕事に従事するのか、企業内での配置転換なども労働組合からきちんとした規制なく進められていったのが現実であった。もっとも、鉄鋼労連の中核をなしていた大手5社の労働組合は、1960年代の春闘における賃上げの戦いを進めるためのストライキ権が毎年不成立になるなど、1959年を最後に鉄鋼産業が賃上げ獲得のための戦いから事実上離脱を余儀なくされていたことも指摘しておく必要があろう。
経営側の「ジョブ型雇用」なる「成果主義」にどう対抗できるのか
本来、ヨーロッパなどでは職種別に横断的な労働市場が形成されており、企業別労働組合の限界が強く問題視されていたのだが、残念ながらそれを克服することができないまま労働組合の組織の弱体化を招いてしまったわけだ。それだけに、これから経営側の「ジョブ型雇用」という名の成果主義にどう対抗していけるのか、既存の労働組合の現実を前にしたとき無力感に苛まれるのが現実である。だが、働く者の生活と権利は守られなければならず、正規・非正規労働者の分断をどう跳ね返していけるのか、労働運動の前途はなかなか厳しいものがありそうだ。しかしながら、労働者の生活と権利を守れない労働組合は、そもそも労働組合とは言えない。21世紀に労働組合が残れるかどうか、直面している課題は実に重いものがあると思う。