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労福協 活動レポート

2021年1月25日独言居士の戯言

独言居士の戯言(第177号)

北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹

岩井克人「危機克服の道筋(1)真の『自由』の意味問いなおせ」に注目

やや時間が経ってしまったのだが、今年1月4日付の日本経済新聞の「経済教室」で、岩井克人国際基督教大学特別招聘教授の書かれた「危機克服への道筋(1) 真の『自由』の意味問いなおせ」を最近になって読み直した。岩井教授は、コロナ禍の暗闇の中で「自由」について考え直すことができた、とされ、20世紀は米中対立前の米ソ対立という「ユートピア」の争いに勝利したアメリカだったが、フランシスフクヤマの言う「歴史は終わった」のではなく、勝利したかのように見えたアメリカ資本主義が変調をきたし、ITバブルからリーマンショック、格差の拡大により先進国突出の不平等な国となる。

20世紀は米ソの「ユートピア競争」の時代、21世紀は米中の「ディストピア競争」へ

他方、中国も鄧小平の改革以来経済発展を遂げ、世界第2位の経済大国へと突き進んでいくものの、武漢での新型コロナ発生後その情報を隠蔽し、世界に感染を拡大させてしまう。強権的手法で感染を抑え込むものの、個人への監視の強化、香港の自治を弾圧するなど、世界の途上国の「希望の星」からディストピア化してしまい、21世紀は米中2つのディストピア大国が対立する時代へと転換したとみる。

コロナ危機はトランプのアメリカにおいて「マスクしない自由」「参加者が密集する支持者集会を開催」し、主権者意識のみ強調し法に従う国民としての義務が軽視され、爆発的な感染拡大により人々の行動の自由が制限されたと述べている。中国についても、国家が定める法に従う義務のみが強調され、監視体制強化で再流行は抑えたものの、法の決定に参加する主権者としての役割を個人から更に奪った、と厳しく批判。

本当の自由を獲得するために「社会契約論」から捉えなおす

そうした中で、対立を理解するカギとして、「社会契約論」から「利己的な人間であっても、国家を媒介とすれば自ら定めた法に従うことが可能になる」という点を取り上げる。つまり、主権者として法の決定に投票を通じた参加と、国民としてその法に等しく従う義務を負う、そのことによって互いに侵害しあう自然状態の自由の代わりに、同じ社会の中に生きる他者の自由と共存しうる、真の意味での自由を獲得することになると説く。
 社会契約論を取り上げたのは「人間の自由は主権者としての国家への関わりと国民としての国家への関わりという2つの関係により支えられている」わけで、ディストピアとしての米中が示したのは、その関係の不均衡がもたらす「自由の破綻の2つのかたち」に他ならない、と捉えておられる。

日本のコロナ危機、幸運に恵まれ「自粛」と「配慮」で何とか対応、本来は社会契約論の基本に立ち返るべきだ

この後、岩井教授は日本のコロナ危機への対処について、たまたま運よく感染しにくい国になったわけだが、いつもこのような幸運に恵まれるとは限らないと警告される。日本は、今回の対処方針である「自粛」し、周りの人々に配慮しながら身勝手な行動を慎んできただけで、「社会契約」の均衡からは程遠い対応しかしてこなかった。もし新しい危機が押し寄せてきたときにも、運が良いとは限らないわけで、その時は米中どちらかのディストピアに陥る危険性を警告され、そこから脱却するには「社会契約論の基本に立って、国家に対する主権者の在り方と国家に対する国民の在り方を構築しなおす必要」があることを強調される。それは、「実は明治維新以来、日本にとっての最大の課題に他ならない」と述べて論文を閉じておられる。

はたしてアメリカが、トランプからバイデンへと民主主義による政権交代を実現させたことによるディストピア化への道を少しく挽回できたのかどうか、お聞きしてみたい気がするが、さすが新年初めての日本経済新聞「経済教室」を飾るのにふさわしい国民に対する問題提起だったと言えようか。

アセモグル・ロビンソン共著『自由の命運』と共鳴する岩井論文

長々しく岩井教授の論文を紹介したのは、当然コロナ禍に対する今の日本の在り方への警告という点もあるのだが、私が最近読み終えたダロン・アセモグル&ジェイムス・A・ロビンソン共著『自由の命運』(上下、桜井祐子訳2020年早川書房刊)の中で、国家(リバイアサン)と社会の関係において、国家権力が強過ぎる「専制のリバイアサン」(ここでは現代中国が典型で権威主義・独裁国家)や国家権力が機能しない社会の力が強すぎる「不在のリバイアサン」を、国民の力によって「足枷を付けたリバイアサン」にさせ、国家と社会のせめぎ合う回廊をつくり続けていくことこそが、「自由」を獲得する道であると述べていることに通ずると感じたからに他ならない。

「権利の普遍的認識」による社会の結束で権力の横暴を排除する

アセモグル・ロビンソン両教授は、ロックやルソーの「社会契約論」はもとより、世界人権宣言などを引用しながら「権利の普遍的認識」が社会を結束させ、権力の横暴をはねのけるべきこと(足枷を付けたリバイアサン)の重要性を指摘しているわけで、岩井教授の主張の背景としては同じトーンにあるものと理解していいだろう。この両者による『自由の命運』は、世界各国の歴史や現状に対して実に興味深い分析を進めながら、「自由」の実現に向けてそれぞれの国や地域が抱える課題について問題提起されている。特に北欧のスウェーデンやデンマークなどの社会民主主義国についての評価が高く、一読を進めたい。

最後に、アセモグル・ロビンソン共著の『自由の命運』の最終章の最後に述べておられる次の文章を引用しておきたい。

「人間の進歩は、国家が新たな課題に応答し、新旧のすべての支配に対抗する能力を拡大できるかどうかにかかっている。だが社会がそれを要求し、すべての人の権利を擁護するために立ち上がらない限り、国家の能力拡大が起こることはない。これは簡単なことでも、自動的に起こることでもないが、起こりうることであり、現に起こっていることなのだ」(下巻390ページ)

あまり変わり映えのしなかった菅総理の「施政方針演説」

通常国会が始まり、菅内閣の施政方針演説などに対する各党の代表質問が衆参両院で実施された。内閣支持率を大きく落としつつある菅総理がどのような施政方針を明らかにするのか注目されたのだが、評判はそれほど芳しいものとはならなかったようだ、やはり、本格的な論戦は、予算委員会の総括質疑の場で繰り広げられる1対1のやり取りに移るわけで、今週から補正予算案の審議が始まり、その採決が終われば本格的な来年度予算の審議に移る。当然、コロナ対策に焦点が当たることは必至であり、特別措置法の改正案をめぐって、法案修正もありうるという比較的柔軟な姿勢を取る意向のようだ。事の重大性にかんがみれば、当然のことだろう。

ワクチン接種をめぐる閣内の不一致、ガバナンスに齟齬が出ている

こうした菅内閣の本格的な国会論戦が始まろうとする中で、ワクチンの実施をめぐって担当大臣に任命された河野大臣と坂井内閣官房副長官の見解が一時対立し、閣内での乱れが生じているようだ。21日に酒井副長官は「6月までに接種対象となるすべての国民に必要な数量の確保は見込んでいる」との説明に対して、河野大臣は22日の記者会見で「修正させていただく」と述べたものの、酒井副長官は22日の記者会見で、「6月までに接種対象となるすべての国民に必要な数量の確保は見込んでいる」と前日と同じ発言を繰り返し、河野大臣の発言とは「齟齬は生じていない」ので「修正しない」と述べている。結局ところは「確保と供給は違う」とのべ、河野大臣も22日の夜には「6月に確保することを目指す」ということで齟齬はないと述べて一応は決着したようだ。それにしても、ワクチン対策特命大臣と官房副長官のずれが一時的にせよ生じたことは、菅内閣のガバナンスは一体どうなっているのか、とますます不信感を増大させることになった事は間違いない。

官邸主導の匿名大臣方式、各省庁のモチベーション低下が心配だ

それにしても、ワクチンの実施という本来は厚生労働省が中心になって所管するべき問題なのに、なぜ行政改革担当大臣が兼務発令されるのだろうか。コロナ担当大臣は西村康稔氏、デジタル担当大臣は平井卓志氏と、重要な問題を省庁ではなく総理大臣の特命担当大臣に担わせるやり方には、霞が関の多くの省庁にとって違和感が強まっているのではないだろうか。とりわけ、厚生労働省にしてみれば、新型コロナウイルスという感染症被害をどう食い止めていくべきなのか、文字通り自分たちの重要な仕事が他省庁の大臣からの指示で実行させられることになるわけで、極めてモチベーションが上がりにくくなっていると思われる。

厚労省の仕事の急増・定数不足は深刻だ、総定員法の枠拡大を

そうした中で、朝日新聞23日付朝刊オピニオン欄において、厚生労働省に2019年まで在籍していた千正康裕氏が、霞が関で働く若手官僚が続々と職場を去っている現実を指摘している。増える仕事に人が増えない現実、このままでは行政の質が落ちミスも増え国民に迷惑をかけ、国民生活を良くすることができなくなることを痛切に訴えている。特に官邸主導や国会の改革などによって霞が関の官僚がいかに厳しい対応を迫られているのか、切実な問題として訴えている。こうした問題の背景には、総定員法の縛りが厳然としてあり、増える仕事に対応できない中で長時間労働を余儀なくされている。2年前に判明した厚生労働省による毎月勤労統計が2004年から調査方法が簡略化され、賃金の実額が低く集計されていたという問題にみられるように、人手不足がこうした不適切な統計の原因となった事も指摘しておく必要があろう。

経産省は『千三つ官庁』、アイディア(政策)はどう生かされたのか

ところが、同じ中央省庁と言っても経済産業省においては全く違った状態にあるようだ。同じ総定員法の縛りの中で、通商産業省時代には省としての目的を達成し終え、エネルギーと中小企業問題ぐらいしか残らないと言われ、通産省解体論すら喧伝され始めていた。ところが、中央省庁改革の中で生き残り「経済産業省」と名称に「経済」が付くや否や他の省庁の分野にまで管轄を伸ばし始めたのだ。

定数削減の影響は、仕事らしい仕事がなくなる中で、朝日新聞がシリーズ「未完の最長政権」第10回で取り上げた「重用された計算官僚『白地から書く力』頼った安倍政権」(1月21日有料記事)が気になる。その中で、経産省には「省益がなく、予算も少ない」だけに「アイディアで勝負」したことを取り上げている。そこでは入省1年目の新米も加わり、30代半ばの課長補佐級の官僚を中心に新しい政策作りを進めてきたことを紹介している。そこでの政策は長期的視点の欠如につながり、次から次へとアイディアを出し続けるものの目標が達成されたかどうか心もとないとみている。だが、安倍政権ではそのアイディアを重用し続けてきたのだ。

経産省は「経済」という名前が付き他省庁分野へ越境、自治体へも

方や、厚労省は人手不足の中でアイディアを出そうにも物理的に出せる状況を奪われ、片や経産省は入省した時からアイディアを求められるわけで、まさに「天国と地獄」でしかない。このような状態を放置したままでいれば、国にとって必要な良き官僚は育たなくなってしまう。元日本福祉大学学長だった二木立教授は、経産省について「千三つ官庁」と表現されていたことを記憶する。新しい政策1000を打ちだすものの、実際にモノになるのはせいぜい3つぐらいというのが霞が関界隈での一般的な評価だとのことだ。まさに「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」というわけだ。逆に言えば無責任な政策が羅列されることにもなるわけで、それを選択する政治家の力が試されているのかもしれない。最近では、都道府県知事へと転身する経産官僚も増えてきており、地方からも目が離せなくなっている。こうした経産官僚の打ち出した政策の総括が、きちんと進められるべき時だと思う。それと同時に、昨今のコロナ禍での量的にも不足する官僚をどう増やしていけるのか、総定員法の定員枠の見直しも含めて、真剣に考えるべき時に来ているように思われる。


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