2021年3月16日
独言居士の戯言(第184号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
白川方明前日銀総裁の書かれた『世界』4月号掲載論文を読んで
月刊誌『世界』4月号に、前日銀総裁で現在は青山学院大学特別招聘教授白川方明氏が、「中央銀行は漂流しているのか?」と題する論文が掲載されている。日本を代表するリベラル系の総合月刊誌だが、日銀総裁を経験された方の論文を掲載したことがあるのだろうか。検索したことはないが、あまり目にしたことがなかったように記憶する。
もっとも『世界』といえば、都留重人教授や伊東光晴教授といった錚々たる経済学者が寄稿された時代もあり、若き経済学徒にとって発売されるや書店に直行したことが思い出される。今度の白川前総裁の論文が掲載されるとの新聞広告を見て、札幌は1日遅れて店頭発売されるわけだが、ワクワク感一杯で『世界』を手にして、上京する機内で速読することとなった次第だ。
日銀法改正後の4半世紀、日銀の悩みが理解されない”もどかしさ”
今回投稿されたのは、おそらく岩波書店から昨年刊行された西野智彦著『日銀漂流、試練と苦悩の4半世紀』を読まれ、単なる書評を超えてこの4半世紀の日銀の金融政策を中心にしながら、「日銀が何に悩んできたのかが実感を持って理解されていないことにもどかしさを覚えることも多かった」し「今後の議論に供するために、中央銀行で長く働いた人間の立場から見える光景を説明することは許されるし、義務かもしれないと思うに至った」(いずれも引用は72ページ)からだと述べておられる。
日銀の金融政策転換後の8年間、今どう総括されるべきなのか
掲載誌はともかくも、いま日本経済がコロナ禍で揺れ動いている中で、いったい日本の経済はどうなっているのか、日銀の金融政策は白川総裁から黒田総裁へと交替して8年近く経過するわけだが、どうこの8年間の総括をするべきなのか、実に重要な問題点を指摘されている。おりしも、今週の18-19日には日銀の政策決定会合が開かれ、この間の政策についての見直しに着手するとのこと。今のリフレ派中心に構成された政策委員の方達の存在感は、著しく落ち込んでおり、どんな論議が展開され結論が出るのか、それほどの期待感はない。願わくは、この白川前総裁の提起されている問題点の一つでもきちんとした応答をしてほしいものだ。
私自身も参議院議員時代に日銀法改正に直面し、国会での金融政策論議に加わった者の一人として、また白川総裁時代には2010年6月プサンでのG20財務相・中央銀行総裁会議で同席させていただき、会議において発言する機会づくりのお世話になった者として、この論文は人一倍注目すべきものとなって迫ってくる。少し詳しくなるかもしれないが、紹介してみたい。
白川前総裁の感じた「もどかしさ」の3つの理由について
白川前総裁は、この間の日銀をめぐる著作の系として、一つは「経済分析の書」、もう一つは「ドキュメンタリーの書」に分類できるが、いずれの書も「もどかしさ」を感じたと述べておられる。その理由は3つあり
1)グローバルな視点で日本経済や日銀を捉える姿勢が乏しい。いま多くの先進国に広がっている「日本化」の意味をどうとらえるのか
2)金融政策を評価する際の基準が主流派マクロ経済学というレンズに偏っている事、この理論体系は妥当なのか
3)民主主義社会における中央銀行の在り方という本質的な論点があまり意識されていないこと――――もっとも、西野氏の著作は強く意識していることに言及
最初のグローバルな視点でいえば、先進国はいずれも低(ゼロ)金利・低成長となり、「日本化」と呼ばれているがその意味は何なのか、あまり解明されていないと批判。
日本は「失われた30年」だったのか、他の先進国も「日本化」へ
注目するのは、日本が「失われた30年」と批判的に言われるが、人口一人当たりGDP成長率で見ると先進国並みで、生産年齢人口一人当たりではむしろ高い部類に属することを指摘され、あまりにも過度なネガティブ評価は、「日本化」以前の時期における欧米の評価に追随しすぎていることの問題を指摘されている。かねてよりフランスの経済学者トマピケティ『21世紀の資本』や、慶応義塾大学の権丈善一教授らが、先進国の経済を比較する際には人口一人当たりで見る必要があることを指摘されてきた。私自身も同じ考え方をしてきたわけで、白川教授のこの見解には全く同感である。
中央銀行は予想物価上昇率を自在に決められるのか、サマーズ教授の反省(自己批判)が聞こえてくる
主流派マクロ経済学について、白川教授は違和感をもった点として、中央銀行は予想物価上昇率を自在に決めることができる、という点を挙げておられる。最近では、アメリカのサマーズ教授ですらこうした見解を批判され「以前では公理として扱われてきたことが、実は間違いであった」と述べていることに言及。アンカー役は果たせるが、インフレは抑制できても、金利に下限があるためデフレを金融政策だけでは阻止することはできないと主張される。その通りだと思う。
さらに、物価の安定と金融システムの安定を別個の目標と捉え、前者を日銀の金融政策で、後者は金融規制監督の仕事と2分法化し、バブル進行過程で物価は安定化していたのに債務過剰や資産価格の不均衡が問題視されることはなかったことを指摘。つまり、こうした2分法では中央銀行はバブルを阻止できないと批判される。
高齢化と人口減少は、景気後退ではなく「潜在成長力の低下」へ
そして、次の指摘は実に重要な視点だと思われる。それは、日本経済の変化の一つは急速な高齢化と人口減少だが、そのことが齎したものは「景気後退」ではなく「潜在成長率の低下」だったということ。「潜在成長率の低下」には金融政策では対応できないのに、政治の要請として低金利による需要の前倒し効果を繰り返し、潜在成長力のますますの低下とともに、国家債務の増大と資産価格の上昇という金融危機の芽をつくった弊害を指摘される。これは、菅政権下でも続けているのではないだろうか。
日銀の独立性、民主主義の下では究極的に国民の支持や共感に依存
3点目は、民主主義との関係である。日銀法の改正によって日銀の独立性が保障されたが、他方で国の財政政策との調和が求められていることのジレンマである。日銀の独立性重視の観点からもっと自立を求められ、政府との意思疎通重視する側からは大胆な金融緩和を求められたわけだが、白川前総裁は総裁時代にいずれも違和感を持ち続けたという。果たして、国民の直接選挙で選ばれていない日銀にとって、国民の支持や共感がインフレ率2%目標や期待への働きかけで実現できるのだろうか、現役時代にその葛藤の中で苦労されたことが吐露されている。白川総裁時代に、こうした誠実な態度に対して政治家の中からは厳しい批判の言葉が投げかけられたことを見てきただけに、胸に迫るものがある。
民主党政権から自民党安倍政権へと後退するころが一番苦労された時期なのだろう。インフレターゲット論と期待に働きかける政策の強要が内外で喧伝されていた中で、このような3つの問題に白川元総裁は納得されないままに退任されていくことになる。その胸中の何たるかを十分に理解できないままだったことが、今では悔やまれる。
中央銀行はインフレファイターとしての存在だった時代から、金融不均衡へもしっかりとした視野を持つべき時代へ
論文の後半に戻ろう。白川前総裁時代に感じておられた「もどかしさ」や「葛藤」から、中央銀行が直面している課題を正面に据えて議論が展開されていく。
もともと中央銀行の独立性が求められてくるのは、1970年代のインフレの経験の猛省から物価安定重視の金融政策が求められ、中央銀行にそれが委ねられる。1980年代には、インフレターゲティング政策がとりいれられ、インフレファイターとしての中央銀行の姿が浮かび上がってくる。金融監督は規制当局に委ねられ、その矛盾がでてくることは先述したとおりだ。
13年1月「政府・日銀の共同声明」に盛り込まれた金融不均衡問題
それは、物価ではなく債務の過剰や資産価格の上昇という金融的不均衡が経済に大きな影響を起こすことの問題を、白川前総裁が辞任直前に取りまとめた「政府・日銀の共同声明」中でそのことに触れてきたと証言へ。さらに、透明性の要請ゆえに数字以外の不均衡リスクの検証が作業から抜け落ちやすく、市場参加者の見方も物価目標を過度に重視し、資産価格の上昇は放置する姿勢を読みとることになる。また、ゼロ金利にまで至るや長期金利の引き下げに向け、長期国債の大量購入やETFや社債の購入など、金融と財政の境界があいまいになってくる弊害を指摘し、中央銀行としてどこまで突き進んでよいのか問題を指摘する。今度の日銀の政策決定会合の中での論点の一つなのだろうか。
中央銀行とは何なのか、「永遠に学習を続ける組織」だとの指摘
最後に、今後の中央銀行の行方について、GAFAが新しい通貨や信用を変える可能性について、競争的市場メカニズムだけでは信用や通貨の不安定化は防げないと否定的だが、さりとて中央銀行としてこれからも引き続きそれらが担えられるのか、自信はないと述べておられる。時代の変化とともに通貨・信用のコントロールするルールは変化するわけで、中央銀行に求められる最大の特質は「永遠に学習を続ける組織」なのだ、と明言されている。実に歴史に謙虚であり、頭が下がる思いだ。
中央銀行の在り方への「日本化」先進国としての経験の提言を
また、中央銀行の守備範囲の拡大について、アメリカのFRBは雇用の最大化と物価安定を、ECBは気候変動まで対象を拡大している。またFRBは、2%インフレ目標は平均で達成できることを引き続き目指そうとしている。
でも、白川前総裁は、問われているのは「物価『目標』重視の政策思想自体であり、金融不均衡への対応の在り方である」(82ページ)と述べ問題の所在を明確にされる。日本における金融政策の「漂流」は、日本の抱える最大の問題が「物価の下落」と捉え、金融政策を通じて期待に働きかければ物価は上がると考え、経済理論もそれを後つけてきたことによるものだったのだ。
真に向き合うべきは、効率性と公平性のバランスをどうとるべきなのか、金融政策だけの裁きでは不可能であり、「高齢化・人口減少が進む中で、財政の持続可能性を如何にして実現するのかという、経済社会全般にわたる問題である」と捉えておられる。日本は問題を抱える先進国として、世界に貢献が求められていると結んでおられる。
どんな経済理論に立脚していくべきか、プラグマティズムなのか
私が今感じている問題として、どんな経済理論に立脚していくべきなのか、白川前総裁の積極的な問題提起は何なのか、知りたいと思う。いま、イギリスのポール・コリア―オックスフォード大学教授の書かれた『新・資本主義論』(伊藤真訳白水社刊)を読み始めているが、コリア―教授はプラグマティズムに立脚してこれからの現代社会を立て直す問題提起をしておられる。経済学のこれからの在り方にとって、白川前総裁が中央銀行に求められる「永遠に学習を続ける組織」を打ち出されているわけで、是非ともその具体的な論理展開を期待したいものだ。
何より自覚して欲しいのは、政治家の持続可能性への感性と理性だ
こうした白川前総裁の提起された問題点について、金融政策を担当している日銀総裁以下重責にある方達だけでなく、一番の問題は政治家の責任であろう。GDPの2倍をはるかに超えた財政赤字の累積を前に、持続可能性を失いつつある経済運営が堂々とまかり通っていることをどう改革できるのだろうか。与党側の責任が大きいことはもちろんだが、政権を担おうとする野党側にとっても、深刻な問題として自覚して解決の道を探り続けて欲しいものだ。