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2022年1月3日独言居士の戯言

独言居士の戯言(第225号)

北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹

遅くなりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。2022年がどんな年になるのか、本来であれば、今年の政治・経済の動きを展望すべきなのかもしれないが、今年は私の運動上の大先輩、高木郁郎さんの書かれた本を年末に読み終え、その読後感からスタートしたいと思います。

高木郁郎著、中北浩爾編『戦後革新の墓碑銘』(2021年12月旬報社刊)を読んで

著者である高木郁郎日本女子大学名誉教授(以下、高木郁郎さんと呼ばせていただく)は、私が労働組合運動に入った時(1969年1月)すでに総評(清水信三氏の下で『総評長期政策委員会』の仕事に従事)を経て、55年体制末期の日本社会党書記局に在籍され、この本で明らかにされているように、党のトップリーダーの方達から最も頼りにされていた理論家であった。東京大学卒業後、総評(実は在学中に在籍)と日本社会党書記局という現場を離れられても、大学で教鞭をとられながら、その理論活動の主戦場はあくまでも「総評・社会党ブロック」であり、その後の「連合」運動や広い意味でのリベラル政治勢力の運動の中にも、一定の距離は起きつつも、身を置かれ続けてこられたわけで、まさに『戦後革新』勢力の盛衰を自分でも演出・体験されてきた「歴史の生き証人」とでもいうべき貴重な存在と言っても過言ではあるまい。

「総評・社会党ブロック」終焉の貴重な「歴史の生き証人」の証言記録だ

その意味で、「戦後革新=総評・社会党ブロック」という時代の終焉を見続けてきた同時代(少し後輩となる私も含め)の人間にとって、高木郁郎さんが書かれた本書は、『戦後革新の墓碑銘』という表題が、今となっては相応しいのかもしれない。と同時にこの著書は、高木郁郎さんの自分史でもあり、岐阜県に生まれ、貧困と戦争という体験を経て高校時代、既にマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読まれて歴史の勉強を志される早熟の秀才だったことを教えてくれる。甲子園を目指しての高校野球から受験のために外れ、東京大学に入り三鷹寮での生活と歴史学研究会ヘの入会、労働問題の勉強を目指して大河内ゼミへ、60年安保の戦いを経験されたことも貴重な体験として深くしみ込んでいたことは言うまでもない。

かくして多くの友人知己との出会いもあり、社会主義運動の理論家として頭角を現わしていく。その真骨頂は、総評をはじめとする労働組合幹部の知恵袋として、さらに日本社会党委員長のゴーストライターとして、党の重要文書策定にもその力量をいかんなく発揮されたことだろう。

私が高木郁郎さんと知り合えた1960年代の後半から70年代前半は、総評は一世を風靡した太田・岩井ラインから市川・大木体制への転換期、社会党は成田・石橋体制であり、高木郁郎さんはまさにその渦中におられ、遠くから仰ぎ見る存在であったことが懐かしく思い出される。ちなみに、私自身大学院に在学中に鉄鋼労連に職を得ていたし、大学時代に一橋で歴史学研究会を創ったメンバーの一人であったわけで、スケールでは到底及ばないものの、私の歩いた道と重なる部分が多いことを実感させられる。。

社会党の社会民主主義への「新宣言」、ドイツに遅れること27年、遅すぎた転換は何故だったのだろうか

いろいろと思い出が募るのだが、私自身がこの本を通じて一番感じさせられたのが、高木郁郎さんが情熱を傾けて作り上げた『新宣言』という社会党の綱領的文書の作成にまつわる話であろう。『新宣言』は、それまでの『日本における社会主義への道』(1964年採択)という綱領的文書が、平和的な道ではあるが事実上のプロレタリア独裁(ある種の階級支配と書かれている)を通じて「社会主義社会」を目指す路線から、社会民主主義(本人は「改良主義」と述べておられる)へと転換させようとするものであり、遅きに失したとはいえ日本社会党の綱領路線の大転換を進めようとしたものであった。

マルクス主義からの決別は、68年プラハの春が決定的だったのか??

この『新宣言』の採択は、党内の協会系活動家の大きな抵抗を受けたものの1986年1月の党大会で採択され、高木郁郎さんの思いが実現する。かつてマルクスの著作に影響されていた高木郁郎さんが、社会党政策審議会におられた時の活動を通じて「川の向こう」(社会主義)と「川のこちら」(資本主義)と表現され、川のこちらの活動の改革こそが重要ではないかと思いつつ、「道」採択時(1962年)の河上丈太郎委員長の就任演説に心を揺さぶられ、やがて1968年の「プラハの春」を弾圧したチェコ事件で、ソ連のプロレタリア独裁への批判を『夜寒―プラハの春の悲劇』(ムリナーシ著 三浦健次訳 新地書房刊)を読まれて痛感、「川のこちら」での改革こそが今求められているという立場に確信を持たれたと読み取った。それだけに、事実上プロレタリア独裁の必要性を認めていた「日本における社会主義への道」から、社会民主主義への転換を進めるための綱領的文書「新宣言」の成立は、遅きに失したとはいえ画期的なことであり、高木郁郎さんのやり遂げられた『戦後革新の墓碑銘』に一番大きな字で書き込むべきエポックではなかったかと私には思えてならない。

80年のポーランド「連帯」の鎮圧、私にとっての転換のエポックだった

なぜ、その問題をこの本の中で印象深い出来事として指摘したのか、と言えば、私自身が労農派マルクス主義の流れを受けた社会主義協会派に所属していたが、路線転換を決意させられたのが1980年の「ポーランドの自主的労組・連帯」をソ連の圧力で鎮圧させられたことがある。もちろん、それ以前の1970年代後半から、協会内での路線論争があり、福田豊「社会主義」編集長や鎌倉孝夫埼玉大学教授らによる「社会民主主義」路線の重要性を指摘されたことの影響を受けていたわけだが、決定的なのはポーランドのワレサ氏の主導した「連帯」を鎮圧したことに対する評価の問題であった。

思えば、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春弾圧、1980年のポーランド連帯鎮圧、と12年に一度、間欠泉のごとく東欧のワルシャワ条約機構加盟の国々において、民主化が起きてはその都度鎮圧される背景は何なのか、現存する社会主義には民主主義とは相いれない重大な欠陥があるのではないか、それはプロレタリア独裁の在り方に問題があるのではないか、そんな問題意識を持たざるを得なくなって協会派からの離脱を決意したことを思い出す。

「新宣言」こそは、戦後革新の墓碑銘で真っ先に書き込む出来事では!?

「新宣言」への高木郁郎さんの思いを読むにつけ、当時の社会党や社会主義協会内の論争が激しくたたかわされたことを思い出し、同じ社会党・総評ブロック内で活動を進めてきた者にとって『戦後革新の墓碑銘』の一コマだったことを痛感する。

もちろん、それ以外にも国労や全林野などの労働運動への参加・協力、そして新しい連合の下での労働者教育機関や、社会党から民主党政権に至る政治戦線での「ニューウェーブの会」所属代議士との交流といった様々な取り組みなどにも言及されている。ただ、社会党から多くの所属政治家が民主党へと移行し、総評から連合への参加が相次ぎ、「総評社会党ブロック」が事実上解体し、連合と民主党時代についてはやや一歩距離を置かれたお付き合いされていたようだ。

「労働」を一貫して重視へ、その日本型雇用である「メンバーシップ型」から、どう「連帯」を取り戻すのか

こうした永い自分史を振り返られながら、高木郁郎さんは、それらに共通する「労働」という問題を自分は一貫して追求してきたことに言及されている。とすれば、今問題となっている日本特有の「メンバーシップ型雇用」をどう克服していくべきだったと考えておられたのか、ヨーロッパの労働組合が「ジョブ型雇用」のもと、産業別の連帯を持ちながら経営側との団体交渉で労働条件を決めているのに、日本では企業を超えた「連帯」の欠けた企業別労組という弱点をどうしたらよかったのか、何時か聞いてみたい気がする。連合の唱えている「労働を中心とする福祉型社会」の背後にある弱点とその克服という問題である。

『戦後革新の墓碑銘』に書き込む問題は、まだまだ残っているのでは

また、日本社会党が「新宣言」としてマルクス主義から社会民主主義へと転換するのが1986年と、ドイツ社会民主党のバードゴーデスベルグ綱領を採択した1959年に遅れること27年、あまりにも遅すぎたこと、それは何故だったのだろうか。これもまた是非ともお聞きしてみたいと思う。「戦後革新の墓碑銘」には、まだまだか書かれなければならない総括すべき点が多く残っているのかもしれない。

最後になるが、編者である中北浩爾一橋大学教授によれば、高木先生は最近健康状態が良くないとのことだ。一刻も早い回復を心より祈念しておきたい。


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