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労福協 活動レポート

2022年7月11日独言居士の戯言

独言居士の戯言(第250号)

北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹

参議院選挙の大勢は、予想通り与党の圧勝へ、改憲も可能か!?

参議院選挙が終わり、その大勢が決まった。自民党と公明党の現与党陣営は、ゆうゆうと過半数の議席を確保し、準与党と言ってもよい日本維新と国民民主党を加えると3分の2を上回る議席を得て、憲法改正も可能な結果となることは確実だ。野党は立憲民主党と共産党も改選議席を確保できず、昨年の衆議院選挙とほぼ同様の傾向が明らかになったわけだ。細かい数字はまだ未確定だが、ほぼ事前の予想通りの結果であり、これからの政局は「黄金の3年間」を確保できたことになる。8日の安倍元総理が凶弾に倒れた事件の影響はどう出たのか、今後の得票分析に待つことになるが、少なくとも自民党にはマイナス要因となっていないようだ。

7月15日、日本共産党結党100年記念日、実は日本社会党の源流でもある

それにしても、日本の野党勢力の中心にいる左翼勢力はどうなっているのだろうか。今週15日、実は日本共産党の結党100周年になる記念すべき日である。1922年7月15日、東京渋谷の高瀬清宅に集まった8名が日本共産党を結成したとされている。堺利彦や山川均、上海から近藤栄蔵、モスクワから徳田球一らの名前があり、その後鍋山貞親と並んで西尾末広や松岡駒吉らの名前もその界隈では出ていたようだ。ただ、その後24年4月に一度解党した後、再び党再建に進んていく。西尾や松岡と共に鈴木茂三郎や浅沼稲次郎もシンパとされていたようで、戦後の日本社会党の源流でもあったことを窺い知ることができる。

『文芸春秋』も来年が創刊100年、8月号で特別企画「日本の左翼100年の総括」に注目

私自身、ちょうど中北浩爾著『日本共産党』(中公新書2022年5月刊)を読み終えていたところ、『文芸春秋』8月号で「創刊100周年特別企画①日本左翼100の総括」という特集が企画されており、興味深くその内容に接することができた。ちなみに、日本共産党は1922年7月、文芸春秋は1923年創刊というわけで、ほぼ同世代の1世紀を駆け抜けてきたわけだ。

中北教授の『日本共産党』については、近いうちにその書評を書きたいと思っているが、『文芸春秋』の方は佐藤優氏と池上彰氏の対談を中心にいろいろと思うところを述べてみたい。対談は大きく3つに分かれている。

最初は「なぜ日本に健全な野党が根付かなかったのか~55年体制以降自民党一強支配を招いた左翼の体たらく」

第二は「日本の左翼100年間の黒歴史~闘争、リンチ、内ゲバ、そして自己正当化」

第三は「忍び寄る左翼の時代~地球環境と世界戦争の危機を前に、共産主義は甦るか?」である。

佐藤優・池上彰の対談、「なぜ日本に健全な野党が根付かなかったのか」、
自民党が日本型社会民主主義を体現したから(佐藤優氏)

やはり、今の時点で一番注目したいのが「なぜ日本に健全な野党が根付かなかったのか」だろう。佐藤優氏は「一番大きいのは、自民党が社会民主主義を換骨奪胎して吸収してしまったこと」にあり、「日本型の社会民主主義を最も体現していたのが自民党だ」と主張している点に注目したい。その点で田中角栄元総理を取り上げ、日本列島改造論で公共事業主導の経済を推進してきたのだが、利権が絡み「金権腐敗政治」という問題をひき起こしてしまったことを挙げている。それを大きく変えたのが小泉純一郎で「日本型社会民主主義」から新自由主義路線へと転換させていく。ただ、社会民主主義に近い公明党が自民党との連立政権に加わったことにより、日本には左翼政党が政権政党として育たなかった理由の一つに加えている。

何故自民党内に社会民主主義に近い人たちが存在していたのか

この点については、私自身も国会での論戦を通じて自民党内には社会民主主義に近い政治家や政治グループが存在しており、民主党政権時代には内閣の中で活躍された与謝野馨元財務大臣などはその代表的な存在だっただろう。

では何故社会民主主義に近い人たちが自民党内に存在していたのだろうか。佐藤氏はその点についての回答を用意しておられないが、私は日本社会党がマルクス主義の影響を強く受け社会民主主義政党というよりもコミュニズムに近い左翼政党であったため、政権政党として自由民主党の中に社会民主主義に近い政治勢力(主としてリベラル系官僚層)を抱え込んできたからではないかと想定してきた。もちろん、1959年に社会党から西尾派が脱党して民社党を結成するわけだが、大企業の企業別労働組合の集合体である同盟をバックにしていたことが、ヨーロッパにおける社会民主主義路線を取ることができず、国民の支持を大きくすることができなかったとみている

日本社会党衰退の要因は社会主義協会のパージにあるのではない、
日本の組織労働者の企業内労組の寄せ集めにあるのではないか

佐藤氏は、日本社会党の低迷の始まりは1970年代後半の社会主義協会派のパージにあると述べておられるのだが、私自身はむしろ協会派のマルクス・レーニン主義による社会党内路線の影響の拡大が、国民的な支持を失ってしまったことにあるのではないかとみている。

それよりも、私には日本の産別と称する労働組合の持つ企業別労働組合としての性格が高度成長下の下で強化され、戦闘的な労働運動をけん引してきた総評、とりわけ三公社5現業の公労協が中曽根内閣以降の新自由主義路線の下での民営化により闘争力を削がれてしまったことが、社会党の支持基盤を掘り崩していったことに注目すべきだと思う。

日本の雇用、ジョブ型ではなくメンバーシップ型雇用の持つ弊害

日本において健全な野党が育たなかった背景には、健全な労働組合運動が育たなかったことがあり、今でも日本の雇用が欧米のような「ジョブ型」ではなく、「メンバーシップ型」雇用という日本的な特徴を持ったことが、企業を超えた産業別労働運動の形成を阻んだわけだ、それゆえヨーロッパにみられるような福祉国家を目指す左翼政党の育成も出来なかったのではないかとみている。日本の雇用制度の特徴にまで掘り下げなければ、日本の左翼政党が政権政党として育たなかった大きな理由には至らないのだと思う。

日本社会党のマルクス主義からの決別は西ドイツ社民党に遅れること約30年、あまりにも遅い転換

その点では池上彰氏が、社会党土居たか子委員長の下で消費税反対の戦いを進めたことが社会民主主義の方針に逆行する行為だったと批判されているのは慧眼だと思う。ただし、池上氏が「土井委員長によって、労農派マルクス主義の系譜は完全に断ち切られたと言える・・・・」と言ってよいのかどうか、1980年代に入ってそれまでの綱領的文書「日本における社会主義の道」に代わって「新宣言」を採択したことに始まり、やはり1989年のベルリンの壁の崩壊から1991年のソ連邦の崩壊による社会主義世界体制の崩壊こそが、日本社会党のマルクス主義との完全な決別へと導いていったのだと思うわけで、土井委員長の時というよりも、その前の時代にさかのぼるのではないかと思う。この点では、1959年に西ドイツ社会民主党がバードゴーデスベルグ綱領採択でマルクス主義から脱却したわけで、遅れること30年近い年月は致命的だったと思う。


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