2022年7月19日
独言居士の戯言(第251号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
書評、中北浩爾著『日本共産党』―「革命」を夢見た100年―
7月15日は日本共産党結党100年記念日、中北教授の『日本共産党』を読んでの率直な感想
今月7月15日は、日本共産党結党100周年という記念すべき日にあたる。100年前は1922年、元号でいえば大正11年で、以降昭和・平成・令和と4代続いて今日に至っているわけだ。一度解散したり治安維持法や戦時下の非合法下で組織が壊滅状態になったり、戦後でも内部の分裂や武装蜂起の失敗等の紆余曲折を経て今日に至ったその歴史は、まさに波乱万丈と形容してよいだろう。100年目に当たる今回の参議院選挙の結果は、選挙区で1名、比例区で3名当選と改選議席を減らしてしまったわけで、立憲民主党と日本共産党というレフトに位置する政党が、ともに敗北したことの意味をしっかりと考えていくべきであろう。
今回取り上げた中北浩爾一橋大学教授の書かれた『日本共産党』(中公新書)は、先進国では唯一「共産党」という党名を変えないで100年継続できたのは何故なのか、これからどうなっていくのか大変興味深い論点について、国際的な左翼運動研究の歴史などを織り交ぜながら、新書というスタイルで400ページを超す大著にまとめ上げている。中北教授は既に同じ中公新書で2017年に『自民党』、ちくま新書で2019年に『自公政権とは何か』など現代政治についての優れた著作を出版されているし、マスコミ紙上でも現代政治への鋭い分析を数多く寄稿されておられ、まさに現代政治分析の第一人者として大活躍されている。
私自身、一橋大学では永原慶二ゼミで日本経済史を学び、日本共産党とも大いに関係してくる講座派・労農派が鋭く対峙した日本資本主義論争に興味を持ち続けてきただけに、この『日本共産党』についてもどのように評価されているのか、大変興味深いものだった。
何故先進国の共産党で唯一「日本共産党」だけが生き延びてくることができたのか
全体は、序章で国際比較の中での日本共産党を取り上げ、なぜ今日まで日本共産党が先進資本主義国で唯一党名も変えずに100年間も継続し得ているのか、特にイタリアやフランスなどヨーロッパの共産党などとの対比で分析されている。そこでは、当然のことながらそれぞれの先進国における社会経済政治状況の違いを反映しているわけで、日本の左翼の中で戦前の労農派、戦後は日本社会党の存在が大きく影響していたし、宮本顕治委員長によるソ連や中国共産党に対する自主独立の路線確立が、今の日本共産党が共産党として存続できていることに大きく貢献していることを指摘している。その際、財政的にもソ連共産党から自立できていたことが背景にあることは、イタリアやフランス共産党などとの違いがあったという指摘に注目したい。日本共産党だけが。未だに政党助成金を受け取っていないこととも関係していることは言うまでもない。
序章での問題指摘を受けて、第1章は「大日本帝国下の結党と弾圧 ロシア革命~1945年」第2章で「戦後の合法化から武装闘争へ 19945年~55年」、第3章は「宮本路線と躍進の時代 1955年~70年代」第4章「停滞と孤立からの脱却を求めて 1980年代~現在」と歴史的な叙述が続き、終章として「日本共産党と日本政治の今後」という章立てとなっている。それ等の詳細については、字数の関係もあり詳しい中身は省略したいが、革命路線で国家権力と厳しく対峙してきただけに、スパイやリンチ、内ゲバといった壮絶な出来事も含めて左翼陣営の在り方についても鋭く問題を指摘されている。また、かつては否定していたことを、あたかも前から主張してきたかのような豹変ぶりなども見事に問題として指摘されている。
中北教授が指摘する日本共産党の2つの大転換
中北教授が最終的に一番主張したかったことは何だろうか。それは、終章のなかでこの100年間で大きく変化してきた点として次の2つを取り上げておられる。
第1に、ソ連共産党に対する従属から自主独立路線への転換
第2に、暴力革命路線から平和革命路線への転換
これらの点は、1961年に制定された『61年綱領』を自分たちの手で初めて作成し、宮本顕治委員長の下で1966年の第10回大会で自主独立路線を確立したとされている。もっとも第2の点は「敵の出方論」ではないのか、と疑問を持つ向きもあるが、すでに共産党としては平和的な方法で革命を進めることを明言し暴力革命は放棄していると強調している。この間、議会を重視する路線に障害となるプロレタリア独裁の放棄、複数政党制と政権交代の承認、革命の方法のみならず社会主義社会も民主主義の尊重を打ち出し「先進資本主義国にふさわしい共産主義の理論を構築したと言える」と中北教授は評価されているが、この点は変わらなかった「民主集中制」なども含めてもう少し検討すべき点を含んでいると言えないだろうか。
100年刊変化しなかった「科学的社会主義」と「2段階革命論」
問題は、この100年間変化しなかった点である。間違いないことは、科学的社会主義と称しているが、マルクス・レーニン主義という教義を放棄することなく継承している事だろう。つまり「革命」路線の継承である。
もう一つは、『2段階革命論を堅持している』ことだ。戦前の27年テーゼに始まり、32年テーゼにおいて封建遺制がまだ残っている遅れた日本資本主義においては、先ず民主主義革命を達成し、連続して社会主義革命を遂行するというロシア革命と同じ路線を提起してきた。それについて、野呂栄太郎や山田盛太郎らの講座派と山川均や向坂逸郎らの労農派の一段階革命論と激しく対立し、その講座派・労農派の対立は、戦後の日本社会党と日本共産党との対立へと引き継がれ、共産党内でも一時イタリア共産党の影響を受けた構造改革論(何と不破哲三氏や上田耕一郎氏らが当初参加、後に分派活動として自己批判)が出てきたものの受け入れられず、その流れは日本社会党に持ち込まれていく。ただし、日本社会党内では労農派の流れを進めた社会主義協会向坂派と構造改革派は対立して江田三郎らは日本社会党から飛び出てしまう。ちなみに日本社会党は「日本における社会主義への道」という綱領的文書を策定し、労農派によるマルクス・レーニン主義による平和革命路線を党綱領の中で明記する。
この封建遺制からの脱却(天皇制の評価も)がうやむやになる中で、日本社会を支配しているのはアメリカ帝国主義と日本独占資本であり、日米安保を廃棄してアメリカの支配を終了させる民族民主革命から社会主義への移行という2段階革命論へと転換する。最近では、民族民主革命から次の社会主義への革命は連続するものではなく、「結果として社会主義への移行」なるものはその時の国民の意識で判断することになる。つまり、社会主義への2段階目の革命は、社会主義像がソ連や中国の現実によって描けなくなっているわけで、遠い将来へと先送りされたというわけだ。
平和革命路線としての民族民主革命の前段「連合政府樹立」すら展望が見えなくなっている現実
それゆえ、不破議長の下で野党連合政権に向けて、外交安保についての柔軟な対応を進めてきてはいるものの、共産党との連合政権樹立(民族民主革命の前段階)への道は事実上困難な状況にあることは、今回の参議院選挙での選挙協力一つとっても明らかであろう。自衛隊についての事実上の存在の容認や日米安保条約についても野党連合政権では「現状維持までは認めるが、それらの強化は拒否する」方針へと踏み出してはいる。しかし、このような党と政府の2分論は野党側の受け入れるところとならないだろう。
もう一つ大きな問題は、共産党の組織の弱体化である。党員や赤旗の購読部数が大きく低下しており、党員の高齢化に拍車がかかっているとのことだ。と同時に「民主集中制」や「科学的社会主義」というイデオロギーも見直す兆しが見えないことも、組織の活力という観点から中北教授は問題視しておられる。
日本共産党は「社会民主主義政党への転換と民主的社会主義へ移行すべき」との提言
この点について、社会民主主義の政党への転換と民主的社会主義への移行を最後に提起されているが、その点は参議院選挙前の6月1日毎日新聞紙上において「日本共産党は共産主義から転換すべき時、起きぬ革命と党勢衰退」と題する論文を書かれている。かつての日本社会党の立ち位置(護憲・民主・中立)がすっぽり抜けている現在、社会民主主義政党へと大転換し、日本の民主主義の中にしっかりと根ざした対抗政党になることができれば、日本のこれからの政治も大きく転換することが展望できるのではないだろうか。
中北教授の『日本共産党』を読み終えて、あらためて日本共産党の大転換に期待したいし、政権交代を望む野党側は、日本共産党に対するしっかりとした問題提起と論争を進めていくべき時ではないだろうか。中北教授を始め多くの知識人や専門家による日本共産党をはじめとする野党側の政権戦略論の展開を「黄金の3年間」と呼ばれる中で全面展開して欲しいと思うのだが、どうだろうか。それこそが、これからの連合政治に活力を齎す近道なのではないだろうか。