2023年2月27日
独言居士の戯言(第282号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
消費者物価の4%台上昇の下、日本の賃金は上がるのだろうか
今年の賃上げが山場に差し掛かってきたようで、大手企業の賃上げ回答が進展し始めている。トヨタとホンダといった輸出競争力を持つ自動車関係企業では満額の回答が出ているようだが、日本を代表するトヨタの賃上げ額はベースアップ額や率の公表はなく、他の労働組合にとって参考になりにくい。今年の賃上げがどのように展開していくのか、日本経済の行方を左右すると言われているだけに、大手企業だけでなく中小企業の行方が気になるところではある。ある情報筋のアンケート調査では、約8割の企業が何らかの賃上げをせざるを得ないと回答しているようだが、問題はその中身であり、連合の5%要求には、定昇(約2%程度)とベースアップを含んでおり、物価上昇を凌駕する実質賃金の向上に結び付くのかどうか、これからの推移に注目したい。1月の消費者物価は4.2%上昇だが、4月以降、海外からのコストアップ分が解消されて以降も2%の消費者物価が上昇し続けるのかどうか、注目すべきポイントなのだろう。
日経新聞『経済教室』、「賃上げ、どこまで可能か」3人の論文掲載
日本経済新聞の「経済教室」というコーナーで、「賃上げ、どこまで可能か」というテーマで21日から23日の3日間、小峰隆夫大正大学教授、川口大司東京大学教授、権丈英子亜細亜大学教授がそれぞれの見解を述べておられ、注目して読んでみた。
一番注目したのが権丈教授の「労働の質向上へ政労使協調」という論文だ。昨年12月のこの「通信」で権丈善一教授との共著『もっと気になる社会保障』(勁草書房刊)を紹介した中で、雇用を中心に論述されていたことを思い出す。
権丈英子教授の「労働の質向上へ政労使協調」論文に注目
冒頭「長く続いた『比較的安価な労働力を手軽に利用できる時代』が今、大きく変わろうとしている」とみておられ、今までは生産年齢人口が激減する中で、高齢者や女性の労働力を活用することで何とか量的にはカバーしてきた。いわば、非正規労働者が増えてきた過去の日本は団塊の世代の引退という事にも遭遇し、「無制限の労働供給」に近かったために低賃金・低待遇を広く蔓延させていた。団塊の世代という塊が落ち込むわけで、高齢労働力の増加は期待できなくなっている。一方、女性の就業率の高まりは量だけでなく質的にも変化し始めており、1985年の男女雇用均等法制定以降も改正され、2015年には女性活躍推進法は女性の管理職登用なども促し、育児休業制度や保育サービスの充実も進み、いわゆる「M字型カーブ」も解消されつつある。そしてその理由は、「これまでと異なるライフスタイルを持つ若い世代が押し寄せてきているからだ」と論じられている。女性の出生コーホート別年齢階層別就業率をみると、世代間のライフスタイルの違いと変化のスピードには驚嘆する。
「労働力稀少社会」の到来、「生産性の高い仕事を経営者が創る経営力が問われる」時代へ
だが、「前期高齢者は減り始めたところだし、女性の就業率の上昇余地は従来ほど大きくない」これからは「労働力稀少社会」を迎えることになり、今や賃金を上げざるを得なくなる、いわば「ルイスの転換点」に近い状況に入りつつあるとみておられる。それだけに、政治は企業側の安価な労働力を求めるレントシーキングに応じてはならないのであり、正規労働者には労働時間や就業場所の柔軟性を高め、男女ともに育児・介護などの事情があっても働きやすくすること、非正規労働者には均等・均衡待遇や正規への転換の可能性を高めることが必要だと主張。さらに、各企業は賃金のみならず魅力ある待遇改善を「労働力稀少社会」という市場規律から求められる時代になるとみる。
私が注目したのが、多くの「正統派」と称する経済学者が「賃上げには生産性の上昇が必要だ」という意見が一般的だが、権丈教授はその際の生産性について「人的資本が付加価値で測られる生産性を決めるという見方」もあるが、「付加価値生産性の高低は仕事の内容そのものが決める」という見方もあり、教授は後者の考え方に立ち「そこでは生産性の高い仕事を経営者が作る経営力が問われる」とみておられる。このシリーズで小峰大正大教授が述べているような「生産性向上が必要」と述べる経済学者・専門家が多いのだが、主語があいまいで労使の責任のような提起のされ方と受け止められてしまう。あくまでも、生産性を高める基本的な責任は仕事内容を考え仕事を創出する任を負う経営者であることをしっかりと確認しておく必要がある。
「政労使コーポラティズム」による「新しい社会連帯システムへ
最後に権丈教授は、労働市場が「転換点」にある今、マクロの観点から政労使が互いに協力し、賃上げや販売価格への公正な転嫁に関する「新しい社会連帯システム、日本型の政労使コーポラティズム(協調主義)が求められていると結論付けられ、最後の最後で「政府も今は、被用者保険の適用除外規定をはじめ、非正規雇用を促してきた制度の見直しを進める時だ」と結んでおられる。ここから先は権丈善一教授の社会保障の出番なのだろう。
年功序列賃金の改革のチャンス到来とみる川口大司教授
二人目の川口教授は「賃金体系改革の好機に」と題して、年功序列型の賃金体系の問題にメスを入れようとされている。全体として労働市場が好転して賃金が上がりやすくなっているという認識は、権丈教授と同様である。過去20年間の賃金が上がらなかった主因は、女性の就業率上昇を中心に労働供給が大幅に増加したことなども同様である。ただ、外国人労働力の移入の問題に触れているが、これから毎年労働力人口が70万人ずつ減少していくには到底対応できないとみておられる。
年功序列型賃金の是正の行方は「ジョブ型=職務給」なのか
賃金水準が引き上がる中で進めるべき点として賃金体系の長期的な変容、すなわち年功序列型賃金体系を見直ししていくべきチャンスだと提言されている。労働者の特性の違いによって今春の賃金上昇は異なるととらえ、短時間・有期・派遣労働者の賃金は上昇、大企業正社員は限定的な上昇(年功的賃金体系が緩和へ)、男女間賃金格差の緩和へのチャンスが到来したとみる。賃上げがない中での賃金体系を変えていくことは困難であり、年功序列的賃金が日本の抱えている問題であるという認識の上での問題提起なのだろう。そこには、今流行の「メンバーシップ型からジョブ型へ」と雇用の転換が望ましいという考え方があると考えておられるのだろうか。
濱口桂一郎JILPT所長のブログで、出展引用の誤りを指摘へ
こういう考え方を日本で最初に提起したのが浜口桂一郎JILPT(日本労働研修・研究機構)所長だが、濱口所長のブログには、この日本経済新聞の川口論文についてのコメントがさっそく掲載されていた。川口教授が、倉知善行、木村太郎、須合智広3氏による研究を紹介して、「勤続年数1年増えることによる昇給が05~06年の2.5%から13~17年の0%に低下し、賃金カーブのフラット化が起きた」ことを報告しているが、0%ということは「年功賃金が存在しないという事か」と直接論文(英語で書かれている)を調べた濱口所長が、『2000年代は2.5%だったのが、2010年代には1.5%に減少した』とあり、これならいかにもありそうです、と引用の誤りを指摘しておられる。さすが、濱口所長、原典にまで遡って厳しく点検されている事に感心させられた。
小峰教授、どうすればイノベーションを起こして生産性向上可能か
小峰教授は「生産性向上ないと持続せず」という表題が示している通り、多くの「正統派」の経済学者と言われる方達が指摘するように「生産性向上ないと持続せず」と結論づけておられる。ただ、どうすれば生産性が向上できるのか、特に生産性をリードするイノベーションをどうしたら起こせるのか、実は誰にも分らないというのが本当のところだし、それを引き起こすアニマルスピリットを持った経営者の輩出が日本において求められてることは確かであろう。
輸入インフレを国内インフレに転化させるのは無理筋なのか
この小峰教授の論文の中で、政府日銀が、デフレからの脱却を目指して、今回の輸入インフレを国内インフレに転化させる政策を取ろうとしていることへの言及がある。常識的には、輸入インフレが起きた時には「輸入インフレを国内インフレに転化させない」ことが経済政策の目標になるべきなのに、今まで異次元の金融緩和政策を取っても内需主導型の2%のインフレ目標が達成できなかったわけで、非常時対応としてみることができるのかもしれない。だが小峰教授は、この実験的政策は無理筋であり、先ほど来指摘しているように「生産性を向上するしか実質賃金の向上は持続可能性がない」と結論付けられている。
「物価は上がらない」から「物価は上がる」へ「ノルム転換重要」
今年の賃上げは、定昇分を除いて1%強でしかないというのが専門家筋の大方の見方で、この程度であれば再び元の2%を下回る物価上昇程度に戻るだけだが、国民は輸入インフレによって2%のインフレが達成されることを知ったし、金融政策はあまり影響がなかったことも知ることとなったわけだ。2%どころか4%以上も物価が上昇し、実質賃金の引き上げを通じて価格転嫁させ、「物価は上がらないもの」という「ノルム(社会的規範)」から「物価は上がるんだ」という「ノルム」へと転化させることの意義は、案外大きいのかもしれない。
もちろん、「期待に働きかける」事による目標の実現という考え方を支持しているわけではないことは言うまでもない。