2024年5月7日
独言居士の戯言(第339号)
北海道労福協政策アドバイザー(元参議院議員) 峰崎 直樹
小宮隆太郎名誉教授の「現代資本主義の展開」(週刊『エコノミスト』連載)を読む
毎日新聞社が発刊している週刊『エコノミスト』創刊100周年の企画で、小宮隆太郎東大名誉教授の『現代資本主義の展開 マルクス主義への懐疑と批判』と題する1970年に掲載された論文を19回に分けて再掲している。小宮隆太郎名誉教授は2年前に94歳で亡くなられ、日本の近代経済学の中心人物の一人として活躍されてきた方である。連載は見開き2ページ建てで、その18回目と最終回の19回目では「先進資本主義の経済的将来像を示そう」という表題で、総まとめ的に「一般的な印象ないしビジョン」が示されている。
1970年に書かれた論文という事は、54年近い過去の論考であり、日本経済がまだ高度経済成長の真っただ中の頃に書かれたものである。(私自身、『エコノミスト』誌は60年代後半ごろから永年愛読していた経済専門誌なのだが、残念ながら当時掲載されていたことを記憶していない。マルクス主義を信奉していたにもかかわらず!)。日本を代表する経済学者が当時の日本経済をどのように見ておられたのか、マルクス主義を意識されながらもそれ自体大変興味深いものとなっている。
マルクス主義は衰退するも、資本主義も大きく転換した半世紀
先ずは、「成長と繁栄」と題して、以下次のように要約した。【()内は私の感想・見方である】
第一に、先進資本主義国において今後もかなり高い成長率が維持され、順調な経済成長が続くことは間違いない。先進国と後進国のギャップも拡大し、社会主義国との所得格差も拡大する。(この点は大きく変化していて、見通し通りにはなっていない)
第二に、先進資本主義諸国の経済は多角的かつ重層的な国際間の貿易・金融・投資によって相互に密接に結びつきつつあり、今後もその基調は変わらない。(ほぼその通りになっている)
第三に、資本主義が行き詰まり、度重なる恐慌と階級対立の激化の末にプロレタリア革命により社会主義が成立する展望は、先進資本主義国の間では非現実的になった。(全くその通りで、ソ連邦の崩壊など社会主義体制が崩壊へ)
第四に、戦後の日本は業界と政府との結びつきが強く、他国に比べて平等な国だが国家独占資本主義論が多少当てはまる国で、戦後25年の民主政治の進展の結果、古典的なプロレタリア革命の可能性は小さい。公害や物価問題など中産階級の政治的影響力が拡大し始め、産業優先の政治体制が侵食され始めている。(革命の展望はその通りだが、産業優先の政治体制はリーディング産業が交代しつつも継続している)
第五に、富と所得の分配について、平等化の方向に向かうとみている。それには、所得再分配政策と同時に経済成長に伴う所得水準の向上など平等化への流れが強まる。(この点は、新自由主義の世界的な流れによって大きく変化している)
戦後政治は革新政党の力不足で社会保障や地域政策は官僚主導へ
次いで「社会改革への展望」と題して、
第六に、経済繁栄と所得分配の平等化が進むとして、それが人間の社会生活の進歩につながるのか。次の二つの側面について述べている。
一つは、実質的側面であり、二つは精神的・心理的側面であると指摘する。日本人が社会的な問題について身内には献身的で関心も高いが、それ以外には無関心で時に冷酷であることを指摘する。これらは、今後の所得水準の向上と政治力のバランスの変化が実質的改革促進の要因となるとみる。
こうした政治を見た時、戦後日本の革新政党(社会党や共産党)は、外交面での与党に対する対立争点は取り上げるが、国内の「社会保障・住宅・公害・物価・過疎等の多くの切実な問題について、野党側から具体的、積極的なプログラムが示されたことは殆んど無かった」と批判されている。結果として、実質的改革は世論を背景にした官僚主導の下で展開されていくだろう予測しておられる。この点は、指摘の通りだと思う。
マルクス主義は「陳腐化し、時代遅れで非現実的で役に立たたない」
二つ目の精神的・心理的側面については、第19回「経済的な繁栄が直接的に幸せな社会とはならない」と題して論述されている。経済発展が必ずしも幸福に結びつくとは言えず、他の社会科学の協力で解明していくべきであると述べ、マルクス主義についてその体系は雄大だが、今やほとんど「陳腐化、時代遅れ、非現実的で役に立たない」と徹底的に批判されている。
かくして、最後の言葉は次のように結んでおられる。
「マルクス主義も社会発展の単純な法則を導き出すことには成功しなかったが、社会科学の進歩には大きく貢献した。(中略) マルクス主義が完全に克服されるまでには長い年月がかかるであろう」
マルクス主義批判とはいえ、マルクス主義には社会科学の進歩には大きく貢献したという複眼的な見方を取っておられるわけで、ご自身がシュンペーター理論を高く評価されていると同時に、マルクス主義の影響からは逃れられていないとも吐露されている。当時の経済学の状況の一面を良く表しているのかもしれない。
斎藤幸平准教授の新しい資本論理解、宇沢理論の二番煎じでは
こうした見方を今から振り返った時、ソ連を中心にした社会主義世界体制が1991年に崩壊し、中国も鄧小平による経済改革が進められてきたわけで、マルクス主義の存在感は著しく落ち込んできたことは間違いない。最近、斎藤幸平東大准教授のマルクスの『資本論』の新しい読み方が取り上げられることがあるが、私には宇沢弘文名誉教授の「社会的共通資本」の二番煎じのような指摘と思えてならない。その評価は別にして、現代においてマルクス主義が大きな影響力を喪失したことは間違いないのではないだろうか。この点、小宮教授が克服までには長い時間がかかるとされているが、約20年後の90年代にはほぼ克服されたと言っていいのだろう。
社会主義世界体制が喪失したとはいえ、中国やロシアなどは権威主義的な政治体制(中国は共産党の政治独裁体制を堅守)は継続しているわけで、それにグローバルサウスと称される途上国なども必ずしも先進資本主義国と同調しなくなっているのが今日的な状況なのだろう。
ハイエクやフリードマンが取り上げられていないのは何故?
この論文を読んで感じたことは、主要にはマルクス主義を意識されたこともあるせいなのだろうか、ハイエクやフリードマンらの市場万能主義の考え方についてほとんど出てこないことだ。ケインズ主義が70年代に入ってスタグフレーション問題に直面して「影響力を失い(?)」、それに代わってフリードマンたちが影響力を拡大していくわけだが、この論文には全く登場していないことにやや驚きを感じた。
社会主義体制が事実上崩壊しマルクス経済学の影響力が薄れていく中で、資本主義経済の中での二つの見方の対立が前面に出てきたと捉えるべきなのだろう。それは、「需要サイド」から見る見方(ケインズ派)と、「供給サイド」から見る見方(新古典派)との対立が生じていると私自身はみている。小宮教授がこの連載をまとめられた当時には、ほとんど意識されることがないほどハイエクやフリードマン達の考え方は問題視されていなかったのかもしれない。逆に、フリードマン達はマルクス主義よりもケインズ主義への敵対心を募らせていたと言われるだけに、シカゴ学派が73年のチリ政権の転覆から、サッチャー、レーガン、そして中曽根政権へとその影響力が広がった事への視点がないのも頷ける。
日本社会党は「社会民主主義の基本となる福祉国家」を軽(敵)視してきたことへのマルクス主義への思い入れの強さ
この論文を今読み返した時、圧巻は日本における革新と名乗る政治勢力である社会党や共産党に対する見方であり、70年代当時大きな勢力を誇っていた日本社会党は、その後内部の分裂を繰り返しながら今日では社会民主党としてほとんど問題にならない程度の弱小政党化していることが小宮教授の批判が的確であったことを示していると言えよう。日本社会党がマルクス主義への思い入れが強すぎ、福祉国家を目標とした社会民主主義を軽視(時には敵視)したことのツケは実に大きな禍根として今に至っている。この論文を読みながら、私自身の50年以上に及ぶ過去の言動に、内心忸怩たる思いを禁じえない今日この頃ではある。